rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

我が家の警邏隊長オニヤンマ

2012-07-10 21:25:30 | 生き物たち

オニヤンマ 10/7/2012



夕方、庭を歩いていると、顔の横をブブブブブンと何か通り過ぎていった。
大スズメバチの羽音とはちょっと違う、しかし、大きい何者かだ。
振り返って音のするほうに視線を向けると、ぎらぎら光る緑色の大きく丸い2つのものが向かってくる。
近くになって、オニヤンマだと判明。
またもや顔のそばを通り抜け、引き返してくる。
私の回りをぐるぐると旋回してから、万両の茎に止まった。
そっと近づき、持っていたかごでそっと触れてみた。
オニヤンマは、微動だにしない。
持ち物を部屋に置き、振り返ってみるとまだそこにいる。
写真を撮りたい、でもカメラを取りにいく余裕はない。
仕方がないから、携帯で写真を撮った。
今ひとつ鮮明さに欠けるけれども、このような機会、そうそうないからよしとする。
一枚撮ると、オニヤンマは飛び立ち、また違うところに止まり、それを写す。
何度か繰り返すうちに、落ち着いていられないとオニヤンマは飛び去った。
そのあと、井戸端でねこの水を変えていると、背後に気配がする。
なんと、私のエプロンの裾に止まっているではないか。
人懐こいオニヤンマがいるものだと、可笑しくなった。
それが合図なのか、オニヤンマは広い我が家の敷地の見回りに、悠然と向かったのであった。

甘い香りのする羽蟻の夜

2012-07-09 20:45:30 | 生き物たち
羽蟻が、明るい社交場を求めて、網戸に群がっている。
ときには、より強い光源を求めて、部屋の中に入り込む輩もいる。
部屋の中に入ってしまった羽蟻は、仕方がないから捕殺する。
すると、えもいわれぬ甘く蠱惑的な匂いがするのだ。
たとえるならジャーマンアイリスの香りが、その匂いに近いだろうか。
ところが、今日、羽蟻を潰さなくても、その香りが網戸越しに漂ってきた。
甘い匂い、つまりフェロモンを撒き散らしていたのだ。
夏の宵に、必死で群れ集う羽蟻たち。
命の交合。
今日は、蜩も啼き始め、キリギリスもかまびすしい。
夏の夜は、命のざわめきに満ちている。


プロメーテウスの弟エピメーテウスの妻パンドラ

2012-07-08 23:01:16 | アート

パンドラ  ジャン・クーザン

ギリシャ神話において、神々が人類に送り込んだ人類初の禍の女パンドラ。
プロメーテウスが天界から火を盗んで人類に与えたことに腹を立てたゼウスが、人を惑わすためのありったけの魅力を備えさせた”女”にあるものを携えさせて送り込んだ。
その箱の中には、病気・悲しみ・貧困・諍い・犯罪など、負の要素がたくさん詰め込まれていた。
あるとき、パンドラが禁忌を犯して箱の蓋を開けると、中からぼわっと災厄の塊が飛び出て飛散してしまった。
慌てふためいて蓋を閉めたはいいものの、既に後の祭り、箱の中には内気な希望だけが隅に隠れていた。

なぜだかこの話は、さまざまに折に触れて思い起こされるエピソードである。
ギリシャ神話をモチーフにした絵画が、各時代の画家達によって繰り返し描かれてきた。
そのとき、画家の脳裏には、何が思い浮かび、どのような思い入れでパンドラを描いたのだろうか。

とくに、ジャン・クーザンの”パンドラ”は、禍の女としてのパンドラの禍々しい雰囲気がでている。
いかにも、神の刺客としての超人的美しさ、善悪の観念の欠如が見て取れる。
パンドラは、自分のしたことに驚きはしても、後悔はしない。

ギリシャ神話の時には既に、人間の本質が語られ、それから少しも変わっていない。
何度でも同じ轍を踏んで行くのだ。
ー善悪の別のない好奇心。
ー技術の諸刃の剣。
ー忠告とは無視されるもの。
ー驚きはあっても後悔はない。


パンドラ ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス


パンドラ  ジュール・ジョセフ・ルフェーブル

美食の街、フランスのリヨン

2012-07-07 11:28:14 | 街たち
「にじいろジーン 地球まるごと見聞録」フランス第二の都市、リヨン。
ソーヌ川とローヌ川の合流するところにローマ時代から流通の要所として栄えた。
また、フランス王国時代には、絹織物の交易の場ともなった。
そんな、時代時代の富が集中したからであろうか、美食の街の一面もある。

では、美食の街に相応しい話題に早速移るとしよう。

リヨンの郷土料理には、よくモツが使われる。
その代表格を2つ。
”ラ・トリップ”は、モツをトマトソースとワインで煮込んだもの。
むかし、パリのレ・アルにある肉料理専門のレストランで、その店のオススメ料理をよく分からずに注文した、それが”ラ・トリップ”。
白い器の中に、トマトソースで赤く煮込まれたものがはいっていて、アツアツととても美味しそう。
喜び勇んで食べ始めたら、普通の肉ではない。
もちろん臭みなどなくうまく料理されているのだが、いささかこってりと重いのだ。
半分も食べられずにギブアップ。
ちなみに、もともとの量は日本人にとって倍くらい多いから、別の意味では食べきったと思う。
観念して辺りを見回すと、70歳は超しているような女性が、大きなステーキをパクパクと順調に食べているではないか。
そのとき、もともとの体の違いを痛感したのであった。
話を元に戻し、次に”アンドゥイエット”。
これは、ソーセージの形状で、豚の腸に牛モツを詰め込んだもの。
それにマスタードソースをつけて食べるらしい。
パリッとした皮の中に、ジューシーで柔らかいモツのバランスが絶妙とか。
こうもモツ料理があるのは、昔の庶民に一般的な肉の部位は高嶺の花で、モツつまり捨てるような内臓を工夫して食べた、そういう歴史があるのだった。
何も、リヨンに限ったことではなく、何処でも庶民は知恵を絞って腹と舌を満たしていたのだが。

リヨンは、2つの川に多くの恵みをもたらされている。
”クネル”は、川の恵みを受け取った郷土料理。
近くで獲れた川魚を、小麦粉とバターで生地を作り、クリームスープと焼き上げる。
見た目は、ポッドパイのよう。
リヨンにあるクネルの名店は、生地にヤシ油を使わず牛脂を使うことで、よりさっぱりとした食感を出すという。
牛脂が?と、ちょっと不思議な気もするが、そう言うのだから仕方がない。

次にスイーツ。
「ブイエ」というショコラティエでは、”マカリヨン”というリヨン発のスイーツを作っている。
マカロンをチョコレートでコーティングしたもので、普通マカロンは5日程度しかもたないのだが、”マカリヨン”は2週間日持ちする優れものとか。
「ベルナション」もショコラティエ。
リヨン以外に店舗を持たず、かたくなに味を守っている。
ここの”ガトー・デュ・プレジダン”は、チョコレートケーキの上に花のように薄く襞のふわりとよったチョコレートでデコレーションしてある。
ケーキの中には、チェリージャムを挟み、味のアクセント。
なお、チョコレートの花を除けてから食べるのだそうだ。
チョコレートの花は、ほろりと口に中でとろける儚さを、ぜひ味わってみたい。

さて、リヨンは、芸術にも力を注ぐ街であることを挙げよう。
旧市街は、歴史地区として世界遺産に登録されるほど、古い街並みが残っている。
なかには、500年以上前の建物があり、歴史が堆積しているのだ。
古代ローマの円形劇場の状態もよく、生きている史跡として今なおコンサート会場などに利用されている。

また、この街の建物の壁には、”だまし絵(トロンプルイユ)”が、数多く描かれている。
どうやら、街と地元企業がアーティスト支援の一環として、描かせているらしいのだ。
川沿いの遊歩道などで開かれる、日曜日午前中のマルシェには、アーティスト達が作品を持ち寄る即売会がある。
他に、地元デザイナーが多く出店する、クリエイター村などもあって、街全体で芸術を育てようとする意思が見える。

もちろん、天国、楽園、桃源郷ではないのだから、いいことずくめではない。
最近では、銃乱射などの物騒な話、イスラム原理主義や反ユダヤ主義など、負の面も多い。
しかし、受け継がれている文化への情熱が、街に溢れているように見受けられ、強く惹き付けられる。

オランジーナを片手に散歩をし、芸術の妖精と語り合いながら、創作に打ち込めたなら、どれほど幸せだろう・・・
リヨンの映像を見るたびに、こんな夢想に浸ってしまうのだった。


ネジバナ隆盛 別名モジズリ(綟摺)

2012-07-05 22:51:34 | 植物たち
ピンクの小花を螺旋状につけたネジバナが、庭のあちらこちらに咲いている。
以前は、畑の脇の芝の土手に咲くだけだった。
でも、10年前あたりから、家をぐるりと取り囲む芝にも咲くようになった。
それから毎年のように、株が増えてきている。

今日、学校帰りの小さい人と自転車で走っていたら、小さい人が「ネジバナが、このあたりの道端にもたくさん咲いているんだよ。」と教えてくれた。
この3日、自転車で走っていたのにちっとも気が付かないでいた。
自転車の速度では、見落としてしまいそうな可憐な花、しかも、かたまって咲くことがあまりないので、いっそう分かりにくい。
それに、今はまだ、自転車をこぐのに精一杯で、つぶさに周りを見る余裕もない。
小さい人が教えてくれなければ、気が付かないうちに花は終わっていただろう。
それにしても、毎日自転車で通う小さい人が、きちんと景色を眺め、季節の移ろいを感じ取っていてくれたことに、安堵の気持ちを持つ。
この積み重ねが、小さい人の人生を豊かにする基礎を作るに違いない。

いたるところに咲き誇るネジバナ。
ささやかなピンクの花は、確実にその領土を広げ、生き残る努力を怠らないしたたかさがある。
しかも、雑草と忌み嫌われるほど群生せず、見た目も人の気を惹く魅力を備えているのだ。
ネジバナの戦略にまんまと引っかかる私たち。
それでもいい、どうか私たちの目を楽しませておくれ。