1944年12月、東京都内が空襲され、東京武蔵野市の吉祥寺の家から
埼玉県の川越に疎開しました。
県立川越高女に転校、学生の勤労動員では
満蒙の兵隊さんの軍服を縫っていました。
厚地のラシャの布地で各部分を担当し
私は衿でしたが布地が厚く衿先など縫うのに
ミシンの針が折れてしまいまます。
折れた針を先生に差出し新しい針を受け取ることは重荷な事でした。
又、1日に何枚縫ったか各人の枚数を壁に張りだすので
通信簿の点数に関係することから
昼食もしないで縫う勝気な生徒もいました。
飛行機工場で労働する方が精神的によほど楽でした。
当時ミシンの針はめったに売っていなかったのです。