漆黒のブリュンヒルデQ
二階の洗面で歯を磨きながらお向かいに目をやる。
また揉めている気配。
また啓介がねね子と揉めている。
視力と聴力の感度を上げれば会話の内容まで分かるんだけど、止めておく。
ねね子は、設定を超えて啓介と向き合おうとしている。そっとしておいた方がいい。
制服を整えて下に下りる。
リビングでは、玉代が祖父母といっしょにテレビを観ている。
テレビは、ここのところ活動が活発になってきた桜島の解説をやっている。
警戒レベル3、なんとか入山規制のレベルにまで落ち着いたようだが、安心はできない。
神さまなのだから、テレビなんか見なくても桜島の様子は分かるはずなんだけど、きちんと祖父母といっしょに見てくれている。いっしょに心配したり安心したりがいいんだ。ときどきマッサージもしてくれているし、玉代の自然な振舞いはありがたい。
―― じゃ、先に行ってるから ――
口の形だけで伝えると、小さく手を挙げて了解してくれる。
そして、日直でもあるので、今日は一人で登校する。
失礼しました
学級日誌を受け取って職員室を出る。
階段を上がろうとしたら、廊下の向こうに芳子の後姿。
廊下の果ては進路指導室だから、朝から進路相談か?
芳子は、今度の生徒会選挙には出なかった。二期務めて小栗結衣のあとの会長をやるのかと思っていたから、ちょっと意外。
おはよーー
ちょっと距離はあるけど、階段の手前で声を掛けておく。
ふぇ?
芳子にしては間抜けな顔で振り返る。
あ、おはようございます。
明るく応えてくれるが、違和感。
瞬間、なにかが芳子の奥に隠れた気配がしたんだ。
そして昼休み。
「ごめん、ちょっと気になる奴がいて」
学食を出たところで玉代とも別れる。
校舎の角を曲がって、中庭に向かおうとしたら「だーるまさんがこーろんだ!」と玉代の声にワイワイ言ってる仲間や下級生の声が混じる。玉代は遊びの天才だ。わたしが教室を出て中庭に向かう間に、すでに人を集めて遊び始めている。
まだまだ薩摩訛が抜けないけど、周囲も本人も気にしていない。そこだけ日当たりがいいような玉代に接していると、とても幸せな気分になれるんだ。大昔の子どものような遊びにもたくさん人が集まっている。
藤棚の下のベンチに芳子が居る。
気配を感じたからではないだろうが、読んでいた書類を紙袋にしまっている。
「進路のことか?」
主題を言いながら、ベンチに掛ける。
「え、あ、まあちょっと。そうだ、コーヒーとココアとどっちがいいですか?」
「うん?」
「新製品出たんですよ、この前はせんぱいのおごりだったから、今度はわたし」
「じゃあ、コーヒー。砂糖もミルクもドッチャリマシマシのやつ」
「りょうかい!」
自販機までスキップする姿は、いつもの芳子だ。
でも、けして思い違いなんかじゃない。芳子の中には、良からぬものが住み始めている。
こっちへ来て、何人も、いや何体も出くわした名無しの権兵衛が見え隠れしている。
「実は、アメリカに留学しようと思ってるんですよぉ」
スキップで戻ってくると、缶コーヒーを渡してくれながら、駅前で英会話を習うくらいの気楽さで切り出す芳子だった。
☆彡 主な登場人物
- 武笠ひるで(高校二年生) こっちの世界のブリュンヒルデ
- 福田芳子(高校一年生) ひるでの後輩 生徒会役員
- 福田るり子 福田芳子の妹
- 小栗結衣(高校二年生) ひるでの同輩 生徒会長
- 猫田ねね子 怪しい白猫の猫又 54回から啓介の妹門脇寧々子として向かいに住みつく
- 門脇 啓介 引きこもりの幼なじみ
- おきながさん 気長足姫(おきながたらしひめ) 世田谷八幡の神さま
- スクネ老人 武内宿禰 気長足姫のじい
- 玉代(玉依姫) ひるでの従姉として54回から同居することになった鹿児島荒田神社の神さま
- お祖父ちゃん
- お祖母ちゃん 武笠民子
- レイア(ニンフ) ブリュンヒルデの侍女
- 主神オーディン ブァルハラに住むブリュンヒルデの父