あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

古道紀行「金剛山の道」[2005年]

2007-08-20 17:26:42 | カントリーウオーク
 2005年7月31日(日)  晴雷雨後曇り
 =古道紀行「金剛山の道」に参加=


 
 遍路シンポジウムの翌日、6時15分起床、7時から
朝食、7時20分に谷町4丁目のビジネスホテルを出る。

 谷町四丁目から谷町九丁目まで地下鉄で行き、近くの
上本町駅から近鉄大阪線の急行に乗った。

 今日は、かねてから興味を持っていた、たなかよしゆき
さんの古道紀行「金剛山の道」に参加させてもらうことに
した。

 猛暑の中、標高差1000m近い金剛山に上るのは…、
とためらいもあったが、もっと暑い大阪や京都市内をふら
つくよりもと思い、たなかさんには事前連絡もせず集合地
に向かった。

 大和高田駅下車、JR和歌山線高田駅へ、10分の乗り
換え時間だから十分間に合うと思っていたが、両駅は思っ
たより離れていた。後半は小走りして、すでに到着してい
た下り電車に飛び乗った。

 同じ車内に、たなかさんや今日の参加者の皆さんも一緒
だった。8時54分、奈良県五條市の北宇智駅に下車する。


 無人のこの駅は、近畿圏でただ一つというスイッチバック
になっている。北側からホームに入った列車は北側に戻り、
東側に平行する本線を南に、次の駅に向かう。

 たなかさんから地図が配られ、コース概要の説明がある。
そのあと特別参加の私を紹介してもらった。今日の参加者
は19名、うち女性の方は6名である。

 駅を出て西へ、コンクリートの橋脚と道床だけ完成し、未
開通の京奈和自動車道路の下をくぐり、つじの山古墳へ。

 一辺52m、高さ9mほどの2段築成の方墳で5世紀後
半のものらしい。墳丘の上は竹などに覆われていた。

 これから上がる金剛山の稜線が北西に見える。塔の辺り
が山頂だというがかなりの高度である。


 近内町の家並みの間を西に少しずつ上がって御霊(ごり
ょう)神社に行く。

 この宮司さんの奥様が関西・N会のメンバーYさんとの
こと。社務所前でスイカのお接待があり、渇いたのどが甘
く潤う。

 さらに本殿にて宮司さんが今日の紀行の安全祈願をして
下され、「撤饌」と書かれたお供物までいただいた。

 厚く御礼申し上げ神社を出る。以前、境内には杉の大木
が林立していたそうだが、平成10年9月の台風で倒れた
とのこと、現在、老木は残っていなかった。

 棚田や家並みの間を小和町の鳳凰寺まで上がる。高台
なので南側の展望がよい。境内にクルマユリが咲いてい
た。県道261号を横断しさらに上り道が続く。


 この辺りの民家は、中二階の窓が楕円形の独特のつく
り、たなかさんに聞くと、中籠窓というのだそうだ。近くに
寛政8年(1796)銘の「金剛山道」の道しるべが立つて
いた。

 小和町の集落が終わり山道に入ると、夏草が繁って胸
のあたりまで伸びている。やがて細めの杉林に入り、幾
分蒸し暑さが和らいだ。

 雲が広がってきたのか林の中は薄暗くなり、午前中だ
というのにヒグラシが盛んに鳴き出した。

 高宮廃寺跡への分岐を過ぎ、さらに杉林の上りが続く。
ゴロゴロと雷鳴が聞こえてきて、間もなく大粒の雨が落ち
てきた。
落雷したらしく、ズドーンという大音響にビックリ。
急いで雨具を着けそのまま止まって待つことにした。

 15分前後待っただろうか、雷鳴は遠のき雨も小降りに
なったので再び上り始める。すぐ近くに欽明水と呼ぶ湧水
地があり、細い流れが登山道を横切っていた。しかし日照
りが続いていたためか、流量は思ったより少ない。

 ここが昼食予定地。12時を少し過ぎていたが濡れてい
て腰を下ろす場所がないので、屋根のある所まで上がる
ことにする。

 濃いもやに覆われた樹林をジグザグに上り、稜線に出た。
今までは人に会わなかったが、大阪側から上ってグループ
と次々に行き交い、急に賑やかになった。

 キャンプ場などのある「ちはや園地」に香楠荘(こうなんそ
う)という宿泊施設があり、その屋根下やそばのベンチなど
で遅い昼食をする。雷雨で気温が下がったのか、すっかり
涼しくなった。

 14時香楠荘前を出発、太いブナや杉木立などの稜線を
金剛山頂にある葛木(かつらぎ)神社に向かう。

 北側の展望が開けた場所があった。下から白い雲がわき
上がり、間近に大和葛城山(959.2mのまろやかな山上
や、二上山、生駒山らしい稜線が霞んで見える。

 雨上がりの好展望を皆で楽しんだ。

 二千五百回参拝とか千回参拝とか記された朱塗りの奉
納灯籠の間を上がり、老杉に囲まれた葛木神社に着いた。


 まず無事登頂を感謝して神社に参拝し、社殿前で記念
撮影をする。

 葛木神社は、日本二百名山・金剛山(1125m)の山頂
付近にあり、一言主神、後醍醐天皇、楠木正成を祭る。
神殿は、関西では珍しいという大社造りである。


 太いしめ縄を張った福石や夫婦杉、朱塗りの奉納灯籠
の間を下ると転法輪寺(てんぽうりんじ)に出る。開基は、
役(えんの)行者(ぎょうじゃ)と伝わる山岳宗教の霊地で、
真言・天台両宗の修験地、明治までは女人禁制だったと
いう。

 役行者は、葛木神社や転法輪寺のある奈良県御所(ご
せ)市の生まれとのこと。

 境内に、葉先が金魚の尾のように分裂した金魚椿(きん
ぎょつばき)という珍しいツバキがあった。


 近くのトイレにあった温度計は23℃、雷雨のお陰で
すっかり涼しくなった。

 ここから大阪府千早赤阪(ちはやあかさか)村への下山
路は幾つもある。今日は、短距離で東側に下る千早新道
を下ることになった。


 太いブナ林に霧が立ちこめ、幽玄的な…とでもいおうか、
独特の雰囲気に満ちている。土道を細い丸木で止めた階
段の道がいやというほど続く。

 どんどん下るのはよいが、あまりにも階段が続くので、
ひざが笑いそうになった。

 楠木正儀墓と記された五輪塔があった。正儀は楠木正成
の次男、千早赤阪村は楠木正成の生誕地で、江戸時代の
「河地鑑名所鑑記」にはこの塔は「楠正成石塔身」と書か
れていたとか。いずれにしても楠木家ゆかりのものらしい。

 やがて千早城跡に下る。千早城は、楠木正成が後醍醐
天皇に従い兵を挙げたところ。急峻な地形を利用した巧み
なゲリラ戦法で鎌倉幕府軍を悩ませ、100日の籠城の間
に鎌倉幕府が滅亡し、建武新政に尽くしたという。

 城跡からは東側の展望が開け、河内長野市街や関西
空港、さらに遠く淡路島などが眺められた。

 城跡から下の階段は一層ステップが高く、疲れの増した
足に追い打ちをかける。しかし長くは続かず、16時21分、
金剛山登山口バス停にゴールした。

 バス停からは、河内長野行きと富田林行きが出る。私は、
過半数の皆さんと16時29分発富田林行きに乗る。

 千早赤阪村は、「日本棚田百選」の「下赤坂棚田」があり、
棚田の村でもある。バスは棚田の間を下って富田林駅に
着いた。

 富田林駅から近鉄長野線、南大阪線直通の急行で大阪
阿部野橋駅経由、連泊の東横インに戻った。

 山麓の御霊神社で安全祈願していただいたお陰で、雷雨
もたいしたことなく通過し、涼しくなった金剛山に登頂で
きた。

 役行者や楠木正成ゆかりの地をめぐり、ブナ林や棚田
など、大阪府とは思えぬ豊富な自然も見られ、充実した
古道紀行であった。

(参加 19人、距離 12㎞、地図 五條、御所、歩行地
 奈良県御所市、五條市、大阪府千早赤阪村)
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大阪城公園と遍路シンポジウム[2005年](続き)

2007-08-19 22:58:34 | Weblog
 2005年7月30日(土)〈続き〉
 =歩き遍路シンポジウム=


 
 午後の会場、朝日新聞大阪本社は、昼食をした地下街
から入れた。1階のアサコムホールで、7月25日~8月
4日まで『歌 一洋(うたいちよう)「ヘンロ小屋」展』を開催
中である。

 歌さんは、徳島県出身の建築家で近畿大教授。四国の
歩き遍路のために、仮眠や休憩が出来る「ヘンロ小屋」を
地元の方と一緒にボランティアで建設を続けておられる。

 私も昨年の歩き遍路で、徳島県や高知県で何か所か休
憩させてもらった。

 会場には、一つひとつ違う遍路小屋の模型が幾つも
展示してあった。


 今日午後は、この展示会の目玉、「歩き遍路シンポジウ
ム」が開催される。この企画の仕掛け人が、私の昨春の
遍路中、「トレッキング・ザ・空海」という催しに誘って下さ
った山下正樹さん。山下さんは、私が2004年秋の遍路の
際には逆打ち中で、途中の番外霊場鎌大師でお会いした。

 シンポジウムとヘンロ小屋展は、山下さんや3月の高野
山お礼参りにご案内いただいた「竜馬16」ことMさんなど、
四国遍路ゆかりのグループ「曼陀羅」の皆さんと、実行委
員長である歌先生の関係者らが中心のボランティアにより、
設営から運営までされている。

 私も、当日だけでもお手伝いをと連絡し、シンポジウムの
受付の一角を担当させてもらった。

 シンポジウムは12時半から。200人の席は、2倍の抽選
に当選した参加者でいっぱいになった。

 最初の講演は、もと朝日新聞論説委員で、2度の歩き遍
路をされた辰濃和男さん、スライドを上映しながら、歩き遍
路と四国の風土などについて話された。

 次は、歌 一洋先生の「ヘンロ小屋プロジェクトについて」、
地元の材料を使い、地元の方の協力を得て、四国全体に
89か所の遍路小屋を数年~十数年かけて建設したいとの
ことを話された。

 全部完成すると、既存の東屋(あずまや)などを含め、数㎞
ほどの間隔で屋根付きの休憩所が出来るとのこと。歩き
遍路にとっては、大変ありがたいことである。

 その次は、ごぜ唄や津軽三味線奏者・月岡祐紀子さんの
演奏。月岡さんの演奏は、昨年3月、山下さんのお誘いで、
愛媛県内海村(当時)のホールと翌日峠の上で聞き、春の
遍路で一番の思い出となった。

 今回は時間が少なく、ごせ唄と、期待した遍路組曲とも
わずかな演奏しか聞けず、残念だった。

 プログラムの最後は「歩き遍路」をテーマのシンポジウム。
パネラーは、四国58番仙遊寺住職で、四国遍路を世界
遺産にと取り組み中の小山田憲正さん。

 歩き遍路にとって知りたい情報が満載のWeb「掬水へん
ろ館」館主・串間 洋〈くしまひろし〉さん。

 徳島県で飲食店を経営され、無料宿泊所で歩き遍路を
お接待中の橋本周也さん。

 7年かけて四国遍路後、西宮で全国の遍路仲間が集ま
る「バー曼陀羅」を経営する森 春美の皆さん。

 コーディネーターの安藤花恵さんは京都大大学院生で
歩き遍路経験者。

 歩き遍路のきっかけ、歩く前の準備、歩き中、歩いた後
のこと、お接待や四国の風土など、それぞれの立場から
話され、歩いた人からは共感を得て、歩こうとする人には
大変役に立つ話であった。

 帰りの出口で参加者からのアンケートを受け取ったが、
ほかの催しに比べてその数の多かったこと、参加者の
満足度の高かったことがうかがわれた。

 参加者の中に、京都のIさんがおられた。Iさんとは、
2004年秋の遍路の後半に何日も同宿し、一緒にもずい
ぶん歩いた。案内状を送ったら参加を申込み、抽選にも
当選して来られたもの。終了後ロビーでしばらく近況など
を交換した。

 山下さんに18時からの仮打ち上げ会へのお誘いを受け、
近くの「北の家族」での集いに参加させてもらう。

 山下さんはじめ曼陀羅のメンバー、歌先生の関係者、
月岡さん、串間さんなどが参加され、2時間余り歓談、ほと
んどの方が歩き遍路経験者や対応者なので、初対面の皆
さんとも話が合い、共通の話題が多かった。

 21時半近く、谷町のビジネスホテルに戻った。
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大阪城公園と遍路シンポジウム[2005年]

2007-08-17 22:30:49 | Weblog
 今朝目が覚めたら、「シンシンシンシン…」と鳴くクマゼミ
の声が聞こえました。関東ではほとんど聞いたことがない
のに、とうとう地球温暖化でやってきたかと、ちょっとした
恐怖すら感じます。

 日中も鳴くかと思ったら、ひとときだけであとは聞こえま
せん。クマゼミの声で、一昨年7月末、「青春18きっぷ」で
大阪に行ったときのことを思い出しました。

 おりしも、今夜のNHK総合TV「ちょっと変だぞ日本の
自然・…」のトップで、クマゼミが大発生の話題が放映され、
大阪では100万羽も発生しているとか。この夏は、さぞか
し賑やかなことでしょう。

========================

 2005年7月30日(土) 晴
 =大阪城公園をめぐる=


 
 谷町のビジネスホテルで、無料サービスの朝食を済ませ、
8時ころに出る。今日も朝から蒸し暑い。午後は今回の主
目的、歩き遍路シンポジウムだが、午前は大阪城公園を
巡ることにした。

 上を阪神高速13号線が通る中央通りを東に向かう。公園
に近い大阪合同庁舎2号館の構内に大きな水準点がある。

 1等水準点第230号で、標高、緯度、経度などが記された
説明板もあった。

 りっぱなビルの大阪歴史博物館の前に、5世紀の大型高
床建物を復元した、法円坂建物群と呼ぶ建物がある。


 大阪城歴史博物館とNHK大阪放送会館の新しい高層
建物の横を進み、南西端から大阪城公園に入る。


 クマゼミの鳴き声は「耳を聾(ろう)せんばかり」という表現
がおかしくないほどの大音量。騒音計で測ったら何10デシ
ベルあるのだろうか。

 りっぱな石垣の南外堀沿いに東に回り、大阪城公園市民
の森を北に進む。木陰だが気温はもう30℃以上か、ゆっ
くり歩いても汗が出る。


 北側の大阪城ホール横を通り、内堀を極楽橋で渡って
大阪城天守閣に向かう坂を上がる。


 天守閣周辺やホールの南側などあちこちに、テントや
仮設舞台が設けられている。今日から8月7日まで「オー
サカキング」という催しが開催されるらしく、たくさんのスタ
ッフが動き回っていた。

 大阪城の公開は9時から、少し待って入場する。現在の
大阪城は、昭和6年(1931)、大阪市民の寄付金により
鉄筋コンクリート造り地上55mの天守閣を再建したもの。

 太平洋戦争では幸いにも焼け残り、昭和24年から再
公開されているという。

 まず最上階の8階まで階段を上がり、展望台に出る。

 この日はもやで遠くは見えなかったが、眼下の大阪城
公園の緑や、大阪市中心街の高層建築群などを展望した。






 この辺りが、「オーサカキングの」会場のようだ。


 7階から2階までは、大阪城や豊臣秀吉の歴史資料など
が展示されている。秀吉の生涯、大阪夏の陣のパノラマ、
秀吉・徳川それぞれの大阪城復元模型などを1時間半か
けてゆっくり見た。


 秀吉や徳川時代の城建築にあたり、各大名に対し金銭
や石垣工事などに大変な負担をさせた強大な権力は、現
在(注:2005年の話)、郵政民営化法案の成立にやき
もきしている小泉政権とは大違いだったことが分かる。


 北西の京橋口から外堀を出て、天満橋駅前を過ぎ、天
神橋から、堂島川と土佐堀川の中州、中之島公園に下り
る。しばらくはバラ園が続くが、花は盛りを過ぎていた。


 大正7年(1918)、ネオルネッサンス様式で建てられた
という、赤レンガとアーチ状屋根の大阪市中央公会堂(上)
や、大阪市役所、日銀大阪支店の北側を通過し、堂島川
の渡辺橋南側から、土佐堀川の肥後橋との間の地下街
に入る。

 蛇足だが、翌々週・8月7日のNHKーTV「義経」で、義
経が暴風の中、阿波(徳島)に向けて船出しようとしていた
が、この船出の地が渡辺橋辺りだったとか。橋のたもとに
何か説明板でもあったのだろうか、気づかなかった。

 地下街で食堂を探したら、午後のシンポジウムにふさわ
しい讃岐うどんの店があった。まだ空いていたので入り、
ぶっかけごまうどんというのを注文、四国遍路での讃岐
うどん同様、おいしかった。        (続く)
 
 
コメント (2)
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四国霊場の山門(4)

2007-08-16 22:21:50 | 四国遍路あれこれ
 今日はついに、最高気温40.9℃が2か所、埼玉県熊谷
市と岐阜県多治見市で記録し、これまでの山形県酒田市
での記録、40.8℃を74年ぶりに塗りかえました。暑さも
極まれりといったところでしょうか…。

 でも、明日からは猛暑も少しは落ち着くとか、今日が
この夏のピークならよいのですが。

 わが家の最高気温は、非公式ながら14時ころ39℃で
した。

========================



 徳島県最後の霊場、65番三角寺の参拝を終え後、いっ
たん徳島県三好市(旧池田町)に入りました。

 別格15番箸蔵寺(はしくらじ)は、標高540mにあります
が、この山門は、山上に上がるロープウェイの中間塔付近、
遍路道をかなり上がった標高410m付近にあります。

 この先、さらに石段をしばらく上がって境内に入ります。
境内には、本堂や鐘楼など、国重文の建築物が数棟並び、
1日余計に日にちをかけても、来た甲斐があったと感じら
れる別格霊場です。

 徳島県三好市と香川県観音寺市の県境稜線上、標高
910mの山上にあるのが66番雲辺寺(うんぺんじ)。
四国霊場の最高地です。山門をくぐった境内には、太い
杉木立が並んでいます。


 北に下った香川県三豊市(旧山本町)にある 67番太興
寺(だいこうじ)の山門。

 山門背後の木は、県の保存木で樹齢1200年というクス
の大木です。

 観音寺市中心街の近く、同じ境内に、68番神恵院(じん
ねいん)、69番観音寺(かんおんじ)があり、山門はひとつ
です。


 観音寺から5km足らずどで70番本山寺(もとやまじ)。
山門の左後ろに見えているのは、四国霊場では数少ない
五重塔。

 本堂は、香川県唯一の国宝とのことです。

 三豊市の山の中腹にある71番弥谷寺(いやだにじ)。この
山門を入って、最上部の本堂までは、500数十段の急な石
段を上がります。


 弘法大師誕生の地、75番善通寺には、3つの山門が
あります。これは北側の74番甲山寺からの遍路道を来て、
大師堂にあたる御影堂(みえどう)に入る山門です。


 善通寺本堂に南側から入るには、この南門をくぐります。

 正面が本堂です。本堂境内と御影堂のある境内とは、間
に公道を隔てていて、本堂側には、五重塔や大クス2本、
五百羅漢など、御影堂側には、大きな宿坊や売店などが
あります。

 善通寺から次の金倉寺(こんぞうじ)に向かう出口とも
いえるのが、本堂東側にあるこの赤門です。


 善通寺から北東に4km足らずで76番金倉寺(こんぞう
じ)。山門の正面に本堂、左に大師堂など、幾つかの建物
が広い境内にゆったりと配置されています。


 金倉寺から北に4km足らずの多度津町にある、77番
道隆寺(どうりゅうじ)山門。

 境内には、坂東、秩父、西国の札所計百観音の、細身
の石像が並んでいます。

 80番国分寺は、高松市の西端、旧国分寺町にあります。
四国霊場の4つの国分寺の中でも最も境内が広く、松の
古木の奥に立つ本堂は、鎌倉中期のもので国重文です。

 寺の背後の旧国分寺跡には、創建当時の伽藍(がらん)
配置の10分の1模型が造られています。   (続く)
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四国霊場の山門(3)

2007-08-15 17:47:31 | 四国遍路あれこれ
 16時前、気象庁のWebで、今日の全国の気温ランキン
グを見たら、所沢市は38.4℃で第4位(19時50分現在
では全国10位)。もちろん今年の最高値でもあり、暑さは
ひとしおです。

 このブログ投稿用デスクトップパソコンのある部屋には、
クーラーがあるのですが、日の当たる窓際なので、カーテン
をしていてもそばの温度計は33℃を越え、座っているだけ
で汗が出てきます(16時25分現在)。

 明日までが暑さのピークとか、そろそろ気温だけは少し
下がって欲しいものです。半月以上雨もないので、ひと雨
も欲しいところです。

========================



 松山市内の47番八坂寺山門。背後の本堂は、りっぱな
鉄筋コンクリート造り。地下に、万体阿弥陀堂があり、高さ
20㎝くらいの阿弥陀さんがびっしり並んでいます。

 山門には仁王像はなく、こぶりの門です。


 八坂寺から4.5kmほど北にある48番西林寺の山門。
門前に流れる内川の、西林寺橋を渡って入ります。


 さらに北へ、石手川を渡って51番石手寺に着きました。
山門には大わらじが奉納されています。

 境内は広く、五重塔など幾つもの堂塔が立ち並び、一般
の参拝者も多く。四国霊場の中でも有数の寺院です。

 遍路道は、松山市の中心街の北側を西に抜けて、県道
183号の3差路にある52番太山寺(たいざんじ)の一の門
をくぐります。

 これは境内の入口にある二の門。鎌倉時代の建築の特
徴を残し、国の重要文化財です。

 午後遅く着くと逆光になり、上の写真は、内側から撮った
もの。

 二の門から本堂までは緩やかな坂を570m上がります。
その先にこの仁王門が立っています。

 この奥にある堂々たる本堂は国宝で、四国霊場でも2番
目に古いとされています。

 松山市内最後の霊場は、JR伊予和気駅に近い53番
円明寺(えんみょうじ)。これは、仁王門と本堂との間に
ある中門です。

 楼門造りの整った姿を見せています。

 瀬戸内海に沿って隣の今治市に入り、旧菊間町にある
番外霊場、遍照院の山門。

 菊間町には瓦製造工場が並び、この地域周辺のりっぱ
な鬼瓦は、いずれも菊間瓦です。
 
 同じ今治市内にある54番延命寺(えんめいじ)山門。

 53番円明寺(えんみょうじ)の次が、54番延命寺(えん
めいじ)で、読み間違いやすい名の霊場が続きます。

 今治市の中心街に近い55番南光坊の山門は、境内の
北東側、国道317号に面しています。

 境内に樹木は少なめですが広く、薬師堂、金比羅堂、
芭蕉句碑、筆塚などもありました。

 今治市中心街の南部、犬塚池から上がり、今治市街や
瀬戸大橋を眺めながら進むと58番仙遊寺の山門です。

 本堂などのある境内までは、山門から急坂をひとしきり
上ります。

 愛媛県最後の霊場は、四国中央市(旧川之江市)の65
番三角寺。伊予三島駅付近から、標高480mまで上がり
ます。

 山門に梵鐘が下がり、自然に鐘を突いてから参拝する
ようになっている、珍しい霊場です。山門をくぐった内側
から撮ったもの

 これも内側から、山門の向こうは急な石段なので、入る
前からは撮りにくいのです。

 境内にはヤマザクラの古木が多く、豊富な緑に恵まれて
います。  (続く) 
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本日休稿

2007-08-14 23:30:16 | Weblog


 家の近くのヒマワリ、この暑さ続きで歩きに出にくい私
とは対照的に、毎日いっぱいの太陽光を受け、元気に
咲いています。

 今日は、午前中から続けた紙ベースの歩行記録の、編
集作業に追われて夕食後までかかってしまい、ブログの
投稿が間に合いませんので、休稿します。
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四国霊場の山門(2)

2007-08-13 22:48:40 | 四国遍路あれこれ


徳島県勝浦町、北に勝浦川、南に那賀川に挟まれた稜線、
標高500mの山上にある、20番鶴林寺(かくりんじ)の山
門です。境内には、杉の巨木が並んでいます。

 本堂前には、2羽の鶴が守護の役目を果たしています。

 いったん那賀川に下り、再び上がった21番太龍寺(たい
りゅうじ)の山門。鶴林寺より高い標高520mの地にあり、
広い境内には、守護の大杉と呼ぶ、樹高48m、樹齢600
年の大杉など、豊富な木立に恵まれています。

 境内は広く、多くの堂塔が立ち並んでいます。

 南東に11kmほど、阿南市ののどかな田園地帯を前に、
山を背にして立つ風格ある山門は、22番平等寺です。

 
 高知県に入って最初の霊場は、徳島最後の23番薬王寺
から約75km、室戸岬にある24番最御崎寺(ほつみさき
じ)の山門です。

 中央の掲額は「室戸山」と記され、広い境内は豊富な
常緑樹に覆われています。
 
 高知市の東、南国市にある、29番国分寺の山門。国分
寺は、各県にそれぞれありますが、ここは高知県(土佐)の
国分寺です。

 本堂は、古い歴史が感じられるこけら葺きで、国の重要
文化財です。

 長い海岸線をたどり、37番岩本寺から80kmの道のり
を足摺岬に到達します。はるか来たなあと感じさせる地に
ある、38番金剛福寺の山門です。

 「補陀落東門」の掲額は、嵯峨天皇筆の模写とか。岬周
辺の山は、ツバキなど、肉厚の常緑広葉樹林に覆われて
いました。

 高知県最後の霊場、宿毛市にある39番延光寺の山門。

 金剛福寺からは、下ノ加江に行き戻り三原村経由では
2日、海沿いの大月町経由だと3日がかりです。

 愛媛県最初の霊場、愛南町(旧御荘町)にある40番
観自在寺の山門です。

 本堂は鉄筋コンクリート造り。明るい堂内に納経所も
設けられていました。

 宇和島の中心街を抜け、旧三間町にある42番佛木寺。
山門は古くからのたたずまいを残しています。

 境内では、四国霊場ではただひとつの、かやぶき屋根の
鐘楼が目につきました。

 周囲を山に囲まれた久万高原町の中心街に近い、44番
大宝寺(だいほうじ)山門。

 寺まで1.5kmほど西の、久万川の橋を渡ったところに
立っています。
 
 大宝寺境内の入口にある、ほかの霊場と同様の山門に
は、立てきれずに折れ曲がった、特大のわらじが奉納され
ていました。


 標高670mの高地にあり、山岳霊場の雰囲気が満ち
あふれた45番岩屋寺の山門。

 この山門へは、八町峠からの稜線をたどり、太い杉木立
や、垂直の岩の間に細いすき間のある逼割(せりわり)
道場のそばを下って入ります。          (続く)

  
 
 
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四国霊場の山門(1)

2007-08-12 23:46:27 | 四国遍路あれこれ
 今日も青空が広がり、真夏の太陽が照りつけましたが、湿
度がここ2,3日よりも低いのと、風もあったので、日陰では
昨日、おとといの暑さよりずいぶん楽でした。

 「四国遍路あれこれ」、しばらくは霊場以外のところを紹介
してきたので、新シリーズは「四国霊場の山門」とします。

 四国88か所をはじめ、番外霊場、別格霊場、奥の院など
でも、山門を撮ったところがあれば、とりあげます。

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 まず最初は、徳島県鳴門市にある、出発地の1番霊山寺
(りょうぜんじ)山門。

 歩き遍路だと、全長約1200kmの旅立ちの門です。
 
 朱塗りの色鮮やかな3番金泉寺(こんせんじ)山門。
板野町に入って最初の霊場です。

 屋島の戦いにおもむく源義経が、戦勝を祈願した寺です。

 3番金泉寺と4番大日寺の遍路道途中にある、3番奥の
院の愛染院山門。金泉寺から3kmほどのところ、昔の
ままのたたずまいを残していました。


 山を背にした4番大日寺の山門は、2階が鐘楼になって
います。

 1階は角柱、2階は丸柱という造りの鐘楼門は、珍しい
ようです。

 中国風の山門は、6番安楽寺です。この山門の2階にも
梵鐘が吊ってあるとは、知りませんでした。

 山号は温泉山で、宿坊に泊まると温泉に入れます。

 桜並木の参道の上に、堂々たる風格を見せるのは、8番
熊谷寺山門。阿波市(旧土成町)の徳島自動車道北側に
あります。

 四国最大の仁王門で建立は貞享4年(1687)。徳島県
有形文化財です。

 吉野川の冠水橋2つを渡って南側、吉野川市(旧鴨島町)
の山すそにある11番藤井寺へ。山門全体を撮りませんで
したが、大きなワラジが奉納されています。


 藤井寺の背後からの遍路転がしを上がり下りして、着い
た12番焼山寺(しょうざんじ)の山門。

 山門をくぐり、老杉の林立する参道を上がった本堂は、
標高700mの山上にあります。

 徳島市国府(こう)町の町中にある16番観音寺山門。
前面の通りは交通量が多いのと、狭いので、正面からは
難しいので横から撮りました。

 すぐ奥の本堂は、改築して真新しくなっていました。

 観音寺から2.8kにある17番井戸寺。コンクリート造り
のがっちりした山門です。


 山門からは、正面にりっぱな鬼瓦の上がった本堂が
目に入ってきます。


 徳島市の南、小松島市にある19番立江寺(たつえじ)
山門。境内に幾つもの塔頭(たっちゅう)が立ち並んで
います。

 寺の周辺は門前町になっていて、遍路以外にも、近隣の
参拝者が多い霊場です。          (続く)
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四国遍路道の地蔵と石仏(2)

2007-08-11 22:29:59 | 四国遍路あれこれ
 今日の所沢の最高気温は36.2℃、今夏の最高では
ないかと思います。やはり夕方まで外出は控えました。

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 前半の遍路では最後の霊場、西予市(旧宇和町)の43
番明石寺に参拝、宇和町の古い街並みを抜けて国道56
号に出ました。

 国道の長い鳥坂トンネル通過を避けて、鳥坂峠越えの
遍路道に進みました。西予市と大洲市との市境の鳥坂峠
(470m)付近にあった普賢大菩薩像などです。


 国道56号は大洲市の中心街を抜けると、松山自動車道
の大洲IC入口付近を通過します。

 そばにあるのが別格霊場十夜ヶ橋。橋の下に、横になっ
た弘法大師像とともに6地蔵が並んでいました。


 後半の遍路2日目、内子町小田を出て45番岩屋寺に向
かいました。

 2つある峠越えのうち南側の農祖峠を越えました。
 峠付近にあった古い石仏。江戸時代と思われますが、
いつごろのものでしょうか。


 さらに越ノ峠を越え、44番大宝寺からの遍路道と合する
八丁坂上に上がり、尾根上の快適な遍路道を進みます。
岩屋寺まであと11町(約1.2km)を示す町石です。


 松山市内最後の霊場、53番円明寺に参拝し、海岸沿い
に出ました。

 松山市に合併した旧北条市のエリアに入り間もなく、西の
下大師堂にあった、行き倒れ遍路を弔った墓です。

 
 隣の今治市に入りました。蒼社川を渡って旧玉川町にあ
る57番栄福寺境内には、お願い地蔵尊が立っていました。


 少し飛んで、愛媛県四国中央市の65番三角寺を過ぎ、
県境の境目トンネルを抜けると、徳島県池田町となります。

 別格15番箸蔵寺への遍路道には、幾つかの丁石(町
石)が残っていました。これはその一つ、2丁石です。


 四国霊場の最高所、標高910mにある66番雲辺寺の
北側、67番大興寺に向かう遍路道には、新しい五百羅漢
が並んで見送ってくれています。


 観音寺市との市境が近い、三豊市(旧山本町)の67番
大興寺の入口では、田んぼを背にして背の高いお地蔵さん
が迎えてくれます。


 山門から500数十段を上がる71番弥谷寺の中間、大師
堂付近には、大岩に磨崖仏が3体刻まれていました。


 お大師様(弘法大師)生誕の地、75番善通寺の境内に
は、最近奉納されたらしい五百羅漢像が並んでいました。


 高松市内に入って2番目、81番白峰寺から82番根香寺
までは約5km。歩きやすい林間の遍路道には、幾つかの
丁石が残っています。これは32丁石です。


 高松市最後の霊場、85番八栗寺から南東に下って志度
湾沿いに進みます。

 さぬき市内(旧志度町)に入り、志度の町中にある番外
霊場地蔵寺に寄りました。境内には石仏群がならんでい
ます。

 同じ境内には、樹齢千年以上の夫婦柏も茂っています。

 88番大窪寺に無事結願し、翌日は大坂峠から3番金泉
寺近くへと向かいます。

 大窪寺そばの民宿八十窪を出て、国道377号を下りま
した。最初の集落、長野の三差路が近づいたあたりにあっ
た29丁石です。

 明和4年(1767)の奉納ですから、もう240年も前の
ものになります。
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四国遍路道の地蔵と石仏(1)

2007-08-10 23:00:22 | 四国遍路あれこれ
 「四国遍路あれこれ」シリーズを続けます。

 次は、遍路道や霊場、番外霊場などで出会った、お地
蔵さんや石仏です。出会った日にちは省略します。

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 11番藤井寺から、最初の「遍路転がし」といわれる山道
を12番焼山寺に向かいます。道すじには1丁(約109m)
ごとに町石(または丁石)が立っていました。

 いまも残る101丁石の地蔵さん。焼山寺まであと101丁
(10km余り)、藤井寺と番外霊場長戸庵の間です。


 12番焼山寺から13番大日寺に向かうルートは2つ
あります。玉ヶ峠を経て本名経由と、神山町役場や道の
駅神山方面からの道筋です。

 これは、本名経由で鮎喰川左岸沿いに進み、徳島市内
に入って間もなくの、西月の宮にあった石の菅笠を被った
三界萬霊塔。さぞかし頭が重いのでは…。


 小松島市の17番立江寺から西南に進み、県道22号に
出て、勝浦町に入って掛谷のT字路を左折、県道16号を
20番鶴林寺北麓に向かいます。

 T字路から少し進んだところ、勝浦川を背にした県道際
にあったお地蔵さん。初回の遍路の時のものです。


 勝浦川の左岸に回り、星谷集落からミカン畑の間を北に
上がると、山の中腹に番外霊場星の岩屋があります。

 星の岩屋からさらに西に600mほど先にあるのが、番外
霊場佛陀石です。

 たくさんの石仏が段になってぐるりと360度並んでいま
した。

 阿南市の22番平等寺を出て南へ、国道55号に向かい
ます。3km余りのところにある番外霊場月夜御水庵(つき
よおみずあん)に並ぶ地蔵群。 


 「真っ縦」と呼ぶ急坂を上がって27番神峰寺に参拝し、
太平洋に沿った国道55号に下ります。

 安芸市伊尾木の町並みに入る手前、旧道の伊尾木公民
館裏手、クスノキの下に2つあるのが新しい「寅さん地蔵」
です。

 平成8年(1996)に、第49作「寅次郎花へんろ」の企画
が決まったのですが、寅さんが亡くなり、まぼろしとなった
ので、記念に建立したのだということでした。

 高知市の西端、33番雪蹊寺の参拝を終えて春野町に
入り、34番種間寺に着きました。境内に並ぶお地蔵さん。 


 足摺岬の38番金剛福寺の参拝を終えた後、39番に
向かうルートは3つあります。

 ①岬の東岸を戻り、下ノ加江から県道21号を三原村
経由、②さらに北、真念案から県道46号経由で県道21
号に合流、③1日多くなりますが、海岸沿いに月山神社、
大月町経由のルートです。

 初回の遍路では、①のルートを進みました。これは、39
番延光寺に参拝し、そばの民宿へんくつ屋に泊まり、翌朝、
宿毛市街を抜けて、高知・愛媛県境の松尾峠に向かう途
中、小深浦の遍路道にあったもの。 

 菅笠は、誰が被せてくれたのでしょうか。

 その先、峠への上り口にある、子安地蔵堂に集められた
石仏群。

 地蔵堂からは、山腹に広がるミカン畑や、山並みなどの
穏やかな展望が広がっていました。

 愛媛県最初の霊場、40番観自在寺の参拝を終え、翌々
日、宇和島市内を通過します。

 市内の中心街に近い、番外霊場龍光院に寄ったら、こん
なかわいいお地蔵さんが並んでいました。

 双子なんでしょうか。これは初回の遍路(2004年3月)で
撮ったもの。

 2回目の昨年11月には、こんな衣装に変わっていました。
顔のお化粧も、少し濃くなっているように感じます。 

 龍光院は高台にあり、宇和島の中心街や宇和島城の展
望のよいところです。             (続く)

 
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