この一句:
鴻門(コウモン)の玉斗(ギョクト) 紛(フン)として雪の如し
曾鞏の詩「虞美人草」の第一句である。鴻門での会見の途中、劉邦が身の危険を感じて会場を中座する。そのお詫びとして項羽と彼の軍師・范増に玉の品を届ける。范増は、“怒り”の余り、その品・玉斗を受け取ることなく地に置くと、剣を抜いて粉々に打ち砕いた と。
范増の“怒り”とは、劉邦を討ち取る絶好の機会を逸した項羽の愚鈍さに対する軍師としての“怒り”である。両雄の以後の運命が予見されて、憤懣やるかたなく現れた范増の行動を表現した一句と言えるのではないでしょうか。
詩は、20句から成っていますが、前半の8句を下にあげてあります。後半部12句については、その要旨を本稿の末尾に示した。
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虞美人草 宋/曾鞏
鴻門玉斗紛如雪, 鴻門(コウモン)の玉斗(ギョクト) 紛(フン)として雪の如し,
十万降兵夜流血。 十万の降兵(コウヘイ) 夜 血を流す。
咸陽宮殿三月紅, 咸陽(カンヨウ)の宮殿 三月(サンゲツ)紅(クレナイ)に,
覇業已随煙燼滅。 覇業(ハギョウ)已(スデ)に煙燼(エンジン)に随いて滅ぶ。
剛強必死仁義王, 剛強(ゴウキョウ)なるは必ず死して 仁義なるは王たり,
陰陵失道非天亡。 陰陵(インリョウ)に道を失うは 天の亡(ホロボス)すには非ず。
英雄本学万人敵, 英雄 本 学ぶ 万人が敵と,
何用屑屑悲紅粧。 何ぞ用いん 屑屑(セツセツ)として紅粧を悲しむ。
…… 省略 ……
註]
鴻門:鴻門の会;秦末のBC206年、劉邦と項羽が鴻門において行った会見。
玉斗:玉製の酒器
陰陵:地名;現安徽省定遠近傍
失道:道に迷う
屑屑:こせこせと小さなことにこだわるさま
<現代語訳>
虞美人草
鴻門の会において(范増)は、剣をもって玉斗を打ち砕き、かけらが雪のように散り、
降伏した(秦の)兵十万は夜に殺傷され生き埋めにされた。
咸陽の宮殿は火を放たれて三か月も火の海となり、
(項羽の成した)覇業はすでに煙燼となり消滅してしまった。
武力の強さだけに頼る者は必ず滅び、仁と義があって初めて王たり得る、
(項羽が垓下を脱出して逃げた際に)陰陵で道に迷ったのは、天が滅ぼすところではない。
英雄(項羽)は、本来万人を敵とする戦法を学んできた、
何でこせこせと紅化粧した美人のことで悲しむことがあろうか。
…… 省略 ……
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――燕雀(エンジャク)、安(イズク)んぞ鴻鵠(コウコク)の志を知らんや
(ツバメやスズメなどの小者に オオトリなど大人物の志は分かるまい)
――王(オウ)侯(コウ)将(ショウ)相(ショウ)、寧(ナン)ぞ種(シュ)有らんや
(王、侯、将軍や宰相に成るのに 別に種族があるわけではない、誰でも成れるのだ)
始皇帝が没した翌年(BC209)、陳勝と呉広など900人が守備隊の兵士となるために徴用されて、漁陽(現北京近郊)に向かっていた。陳勝(チンショウ)と呉広(ゴコウ)は偶々輪番制で徴用されたこの集団の世話役‘屯長’に当たっていた。
大沢郷(現安徽省宿州市近傍)に差し掛かった際、大雨で道路が通じなくなり、足止めを余儀なくされた。結果、期日までに着任することができなくなった。勿論、期日に間に合わなければ、理由の如何を問わず、法違反で斬殺される。
当時秦は、厳罰を伴う法治至上主義の時代である。仲間と相談の結果、遅刻は死罪、逃亡も死罪、謀反も死罪、同じ死ぬなら謀反を という結論に達した。「陳勝呉広の乱」である。その折に仲間を鼓舞して発した陳勝の名セリフが「王侯将相、寧ぞ……」である と。
なお、陳勝は、貧農で日雇いの暮らしをしていた人のようである。日雇いの頃、まともな教育を受ける機会があった人とは思えないが、「燕雀安んぞ……」と豪語して、仲間内でも一風変わった存在であったらしい。
「陳勝呉広の乱」を契機に動乱は、燎原の火の如く瞬く間に全土に広がっていった。秦に滅ぼされた曾ての諸王国も立ち上がっていく。秦の圧政・いびつな法治至上主義に対する世人の不満、鬱憤がいかに大きかったかを物語る現象であると評されている。
劉邦や項羽もその動機は異なるが、動乱の最前線に躍り出ていきます。幾多の戦いを経て、世の趨勢はこの両者に集約される形となり、終には、劉邦が咸陽一番乗りを果たします。しかし劉邦は、一旦灞上(ハジョウ)に退去して、項羽の到着を待ちます。
やがて項羽の軍が関中に入り、鴻門に駐屯します。劉邦は、釈明の為鴻門に向かいます。ここでなされた両雄の会見がいわゆる「鴻門の会」(BC206)である。歴史的な名場面である「鴻門の会」の模様を覗いて見ます。
項羽の軍師范増は、項羽に「劉邦を殺すべし」と進言し、また項羽の従弟項荘には「剣舞を演ずる際に劉邦を刺せ」と言いつけました。一方、項羽の叔父項伯は、このような項羽陣の空気を劉邦の軍師張良に伝えます。曾て張良に命を助けられた恩義があったのです。
劉邦が会見場に参上して、非常に恭順な態度で挨拶の口上を述べます。宴が始まり、項荘が剣舞を舞う。項羽には自ら手を出す気配はありません。項荘の剣舞が激しさを増していくと、項伯も剣を抜いて舞い、項荘の動きを牽制します。緊迫した空気に満ちた場面です。
そこへ張良の指示で、力自慢の樊噲(ハンカイ)が剣を佩び、盾をもって会場に押し入って来ます。項羽を睨み付けつゝ、項羽と問答を交わす。その形相は、“頭髪は逆立ち、まなじりは裂けんばかり”であった と。
項羽と樊噲のやり取りの間に、張良の機転で劉邦は厠に立ち、機を見て樊噲共々灞上に脱出することに成功しました。張良は会見の中座を詫びる印として項羽に白璧(ハクヘキ)を、范増には玉斗を献上しました。項羽はそれを受け取ると傍らに置いた。
范増は、玉斗を地に置き、剣を抜いて粉々に打ち砕き、怒り心頭に発して項羽に向かって怒鳴った:「この青二才、天下を語るに足らぬ。項王の天下を奪う者は、必ずや沛公であろう。いまにわが一族も彼の虜になろう」と。上に挙げた詩の第一句の状況である。
項羽は、楚の国の名門出身であることに加えて連戦連勝の自信から、沛県の田舎者である劉邦など自分の敵では有り得ないと思っていたのでしょう。また劉邦の恭順な態度に心を許したのでしょうか。劉邦を‘殺害する’という気は毛頭なかったようです。
その後、項羽は、劉邦を巴・蜀(現四川省重慶・成都市の辺)・漢中の王、“漢王”に封じ、自らは、“西楚覇王”として楚の国への帰還の途についた。咸陽で秦が遺した財宝を略奪し、都に火を点けた後に である。都は3ケ月も燃え続けた と、上の詩の通りである。
なお上の詩では、第1句に続いて、項羽の行状に対してかなり批判的に詠っています。省略した部分は、その要旨は以下のようで、虞姫に対する哀憫の情が感じられる内容です:
[(垓下において)項羽に付き添っていた虞姫は自害し、その魂は剣の光を追うように飛び去り、鮮血は野原に流れていきヒナゲシ(虞美人草)に姿を変えた。揺れるヒナゲシをみると、憐れにも健気な虞姫が、彷徨っているようにも見えるが、一言も語ることはない。]
[時は過ぎて、川の流れは今も昔も変わらないが、曾て戦いに明け暮れた両雄はともに墳丘の下で眠っている。風に揺れるヒナゲシは、誰の為に舞っているのであろうか。]
詩の作者曾鞏(1019~1083)は、北宋時代の文学者で、主に散文に長じていた。後に“唐宋八大家”の一人に数えられている。
鴻門(コウモン)の玉斗(ギョクト) 紛(フン)として雪の如し
曾鞏の詩「虞美人草」の第一句である。鴻門での会見の途中、劉邦が身の危険を感じて会場を中座する。そのお詫びとして項羽と彼の軍師・范増に玉の品を届ける。范増は、“怒り”の余り、その品・玉斗を受け取ることなく地に置くと、剣を抜いて粉々に打ち砕いた と。
范増の“怒り”とは、劉邦を討ち取る絶好の機会を逸した項羽の愚鈍さに対する軍師としての“怒り”である。両雄の以後の運命が予見されて、憤懣やるかたなく現れた范増の行動を表現した一句と言えるのではないでしょうか。
詩は、20句から成っていますが、前半の8句を下にあげてあります。後半部12句については、その要旨を本稿の末尾に示した。
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虞美人草 宋/曾鞏
鴻門玉斗紛如雪, 鴻門(コウモン)の玉斗(ギョクト) 紛(フン)として雪の如し,
十万降兵夜流血。 十万の降兵(コウヘイ) 夜 血を流す。
咸陽宮殿三月紅, 咸陽(カンヨウ)の宮殿 三月(サンゲツ)紅(クレナイ)に,
覇業已随煙燼滅。 覇業(ハギョウ)已(スデ)に煙燼(エンジン)に随いて滅ぶ。
剛強必死仁義王, 剛強(ゴウキョウ)なるは必ず死して 仁義なるは王たり,
陰陵失道非天亡。 陰陵(インリョウ)に道を失うは 天の亡(ホロボス)すには非ず。
英雄本学万人敵, 英雄 本 学ぶ 万人が敵と,
何用屑屑悲紅粧。 何ぞ用いん 屑屑(セツセツ)として紅粧を悲しむ。
…… 省略 ……
註]
鴻門:鴻門の会;秦末のBC206年、劉邦と項羽が鴻門において行った会見。
玉斗:玉製の酒器
陰陵:地名;現安徽省定遠近傍
失道:道に迷う
屑屑:こせこせと小さなことにこだわるさま
<現代語訳>
虞美人草
鴻門の会において(范増)は、剣をもって玉斗を打ち砕き、かけらが雪のように散り、
降伏した(秦の)兵十万は夜に殺傷され生き埋めにされた。
咸陽の宮殿は火を放たれて三か月も火の海となり、
(項羽の成した)覇業はすでに煙燼となり消滅してしまった。
武力の強さだけに頼る者は必ず滅び、仁と義があって初めて王たり得る、
(項羽が垓下を脱出して逃げた際に)陰陵で道に迷ったのは、天が滅ぼすところではない。
英雄(項羽)は、本来万人を敵とする戦法を学んできた、
何でこせこせと紅化粧した美人のことで悲しむことがあろうか。
…… 省略 ……
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――燕雀(エンジャク)、安(イズク)んぞ鴻鵠(コウコク)の志を知らんや
(ツバメやスズメなどの小者に オオトリなど大人物の志は分かるまい)
――王(オウ)侯(コウ)将(ショウ)相(ショウ)、寧(ナン)ぞ種(シュ)有らんや
(王、侯、将軍や宰相に成るのに 別に種族があるわけではない、誰でも成れるのだ)
始皇帝が没した翌年(BC209)、陳勝と呉広など900人が守備隊の兵士となるために徴用されて、漁陽(現北京近郊)に向かっていた。陳勝(チンショウ)と呉広(ゴコウ)は偶々輪番制で徴用されたこの集団の世話役‘屯長’に当たっていた。
大沢郷(現安徽省宿州市近傍)に差し掛かった際、大雨で道路が通じなくなり、足止めを余儀なくされた。結果、期日までに着任することができなくなった。勿論、期日に間に合わなければ、理由の如何を問わず、法違反で斬殺される。
当時秦は、厳罰を伴う法治至上主義の時代である。仲間と相談の結果、遅刻は死罪、逃亡も死罪、謀反も死罪、同じ死ぬなら謀反を という結論に達した。「陳勝呉広の乱」である。その折に仲間を鼓舞して発した陳勝の名セリフが「王侯将相、寧ぞ……」である と。
なお、陳勝は、貧農で日雇いの暮らしをしていた人のようである。日雇いの頃、まともな教育を受ける機会があった人とは思えないが、「燕雀安んぞ……」と豪語して、仲間内でも一風変わった存在であったらしい。
「陳勝呉広の乱」を契機に動乱は、燎原の火の如く瞬く間に全土に広がっていった。秦に滅ぼされた曾ての諸王国も立ち上がっていく。秦の圧政・いびつな法治至上主義に対する世人の不満、鬱憤がいかに大きかったかを物語る現象であると評されている。
劉邦や項羽もその動機は異なるが、動乱の最前線に躍り出ていきます。幾多の戦いを経て、世の趨勢はこの両者に集約される形となり、終には、劉邦が咸陽一番乗りを果たします。しかし劉邦は、一旦灞上(ハジョウ)に退去して、項羽の到着を待ちます。
やがて項羽の軍が関中に入り、鴻門に駐屯します。劉邦は、釈明の為鴻門に向かいます。ここでなされた両雄の会見がいわゆる「鴻門の会」(BC206)である。歴史的な名場面である「鴻門の会」の模様を覗いて見ます。
項羽の軍師范増は、項羽に「劉邦を殺すべし」と進言し、また項羽の従弟項荘には「剣舞を演ずる際に劉邦を刺せ」と言いつけました。一方、項羽の叔父項伯は、このような項羽陣の空気を劉邦の軍師張良に伝えます。曾て張良に命を助けられた恩義があったのです。
劉邦が会見場に参上して、非常に恭順な態度で挨拶の口上を述べます。宴が始まり、項荘が剣舞を舞う。項羽には自ら手を出す気配はありません。項荘の剣舞が激しさを増していくと、項伯も剣を抜いて舞い、項荘の動きを牽制します。緊迫した空気に満ちた場面です。
そこへ張良の指示で、力自慢の樊噲(ハンカイ)が剣を佩び、盾をもって会場に押し入って来ます。項羽を睨み付けつゝ、項羽と問答を交わす。その形相は、“頭髪は逆立ち、まなじりは裂けんばかり”であった と。
項羽と樊噲のやり取りの間に、張良の機転で劉邦は厠に立ち、機を見て樊噲共々灞上に脱出することに成功しました。張良は会見の中座を詫びる印として項羽に白璧(ハクヘキ)を、范増には玉斗を献上しました。項羽はそれを受け取ると傍らに置いた。
范増は、玉斗を地に置き、剣を抜いて粉々に打ち砕き、怒り心頭に発して項羽に向かって怒鳴った:「この青二才、天下を語るに足らぬ。項王の天下を奪う者は、必ずや沛公であろう。いまにわが一族も彼の虜になろう」と。上に挙げた詩の第一句の状況である。
項羽は、楚の国の名門出身であることに加えて連戦連勝の自信から、沛県の田舎者である劉邦など自分の敵では有り得ないと思っていたのでしょう。また劉邦の恭順な態度に心を許したのでしょうか。劉邦を‘殺害する’という気は毛頭なかったようです。
その後、項羽は、劉邦を巴・蜀(現四川省重慶・成都市の辺)・漢中の王、“漢王”に封じ、自らは、“西楚覇王”として楚の国への帰還の途についた。咸陽で秦が遺した財宝を略奪し、都に火を点けた後に である。都は3ケ月も燃え続けた と、上の詩の通りである。
なお上の詩では、第1句に続いて、項羽の行状に対してかなり批判的に詠っています。省略した部分は、その要旨は以下のようで、虞姫に対する哀憫の情が感じられる内容です:
[(垓下において)項羽に付き添っていた虞姫は自害し、その魂は剣の光を追うように飛び去り、鮮血は野原に流れていきヒナゲシ(虞美人草)に姿を変えた。揺れるヒナゲシをみると、憐れにも健気な虞姫が、彷徨っているようにも見えるが、一言も語ることはない。]
[時は過ぎて、川の流れは今も昔も変わらないが、曾て戦いに明け暮れた両雄はともに墳丘の下で眠っている。風に揺れるヒナゲシは、誰の為に舞っているのであろうか。]
詩の作者曾鞏(1019~1083)は、北宋時代の文学者で、主に散文に長じていた。後に“唐宋八大家”の一人に数えられている。
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