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愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題95 酒に対す-17;項羽:垓下の歌

2018-12-18 16:16:22 | 漢詩を読む
この一句:
 力 山を拔き 氣 世を蓋(オオ)う、

怪力で連戦連勝、しかし時運に見放され、最後に垓下の砦で、劉邦に負けを喫した項羽の慨嘆の一句と言えるでしょう。項羽作の七言絶句「垓下の歌」の起句です。詩は下に挙げました。

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 垓下歌        垓下の歌  秦末 / 項羽
力拔山兮氣蓋世, 力 山を拔き 氣 世を蓋(オオ)う、
時不利兮騅不逝。 時に利あらず 騅(スイ)逝(ユ)かず。
騅不逝兮可奈何, 騅 逝かざる 奈何(イカ)にす可(ベ)き、
虞兮虞兮奈若何。 虞(グ)や虞 若(ナンジ)を 奈何(イカン)せん。
 註]
兮:ケイ;[助詞] 語調を整える助字、『楚辞』や『楚辞』風の作品に多くみられる、
(訓 読しないことが多い)
騅:項羽の愛馬の名
虞:項羽の愛姫の名
奈何:(反後の形)どうしたものか;「奈何」と、二字で用いた時の訓読と意味は、
「奈(いかん、いかん・セン)」と同じ。処置する対象(A)があるときは、「奈A何」
のように「奈何」の間に置き、「Aヲいかんセン」と訓読する。戸川芳郎 監修『全訳
漢辞海』に拠る

<現代語訳>
  垓下の歌
私の勢威は山をも引き抜くほどに強く、気概は広く天下を掩っていたが、
時運に恵まれることなく、愛馬の騅は進もうとしない。
騅が進もうとしないのを どうすることもできない、
虞よ、お前をどうしたものか。
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今回は、再び乱世となった秦末に活躍した主人公級の人物像に脚光を当てていきます。但し究極的には、上掲の、また以後取り上げる詩を鑑賞、理解するには必須の事柄といるでしょう。

「陳勝呉広の乱」を先駆けとして、各地で地方官が殺され、また地方官が率先して造反を起す状況となっています。江東の会稽郡(現浙江省)の郡守である殷通(イントウ)も立ち上がるべく意を決しました。後れては、自分が百姓たちに血祭りの対象にされるであろうから と。 

殷通は、土地の有力者・項梁(コウリョウ)に「将軍として江東の子弟を率いて戦ってもらいたい」と持ち掛けた。項梁は驚いた。“郡守を殺して、自ら旗を挙げよう”と心中に思いを巡らしていた矢先なのである。下がった項梁は、項羽と相談の上、両人揃って郡守の前に現れます。

項羽は、いきなり抜刀して駆け出し、殷通の首めがけて力まかせに白刃を振り下ろした。呆気にとられて総立ちになっていた多数の幕僚たちも斬り倒された。項羽は、身長180cmの大男で、まさに“力 山を抜く”怪力の持ち主であることを衆に示しました。

項梁は、殷通から印綬を取りあげ、わが身に佩び、“我こそ郡守なり”と宣言したのである。そこで衆に挙兵のことを告げると、郡所属の諸県から精兵八千が集まった。旗揚げである。

項梁は、楚の名将項燕(コウエン)の子であり、項羽は、項燕の孫にあたる。項羽は幼くして両親を亡くしたため、叔父の項梁に養われていた。項羽は、文字の覚えも悪く、剣術を習ってもあまり上達しなかった と。そのことで項梁は怒っていたようである。

項羽は、「文字は名前が書ければ充分。独りを相手にする剣術はつまらん、万人を相手にする兵法を学びたい」と。先の曽鞏の詩中で、「英雄 本 学ぶ 万人の敵」と詠われていました。項梁は、集団戦の極意を教えたが、項羽は概略を理解すると、それ以上学ぶことはなかった と。

一方、沛県の亭長・劉邦は、驪山陵の工事のために徴用された人夫を連れて咸陽に向けて出発した。途中脱走者が相次ぎ、少人数では目的地に進むこともできず、引き返しても処罰される。というわけで逃走することになり、結局、劉邦は逃亡者の頭領となっていた。

沛県の県令は、腰が定まらず、立つべきかどうか迷った挙句、造反に踏みきる。書記の蕭何(ショウカ)らに相談すると、「秦の役人では衆は付いてこない。逃亡中の劉邦が百人ほどの手下を持っているという」と 統率者として劉邦を推薦します。県令も納得したのである。

犬の業をしている怪力の持ち主・樊噲(ハンカイ)が伝令役でその旨劉邦に伝え、劉邦らは沛県に引き返します。ところが、一行が県に近づいたことを知った県令は、前言を覆して、「城門を閉じ、劉邦の徒党を一人たりとも城内に入れてはならぬ!」と、変心します。

蕭何らは、身の危険を感じて夜陰にまぎれて城外に逃れ、劉邦に合流します。劉邦は蕭何に、絹布に次のような檄文を書かせて、矢に結んで城内の父老らに送った。「県令を誅し、然るべき人物を立てて、諸侯に応じよ。さもなくば父子ともに屠られるぞ」と。

住民は、県令を殺し城門の扉を開けた。父老たちは、劉邦を城内に迎え入れ、彼に県令の印綬を押し付けた。劉邦は、綻びて、垢だらけの衣服を指して、「見よ、この格好を。県令って柄じゃねえわ!」と辞退するが、結局県令を引き受けて、沛公と称されるようになった。

秦の行政区分は2段階で全国を36郡に、各郡は幾つかの県に分けられていた。長官は、郡では郡守、県では県令である。時に、項梁は“郡守”(年齢不詳)、項羽(23歳)、劉邦は“県令”(38歳)であった。当然、県令に比して群令が格は上である。

BC208年、陳勝・呉広の軍が秦の将・章邯(ショウカン)に大敗し、陳勝・呉広ともに自らの部下に殺害されます。以後、十余万の軍勢を率いる項梁が造反軍の主流となっていきます。項梁は造反陣の諸将を薛(現山東省滕県の辺)に召集し、今後の方針を検討する会合を開いた。

この会合に70歳の一老人・范増(ハンゾウ)が勝手に参加し、演説を行った。曰く:「秦に滅ぼされた六国の怨念こそ、秦を打つ原動力。中でも最も酷い目に遭ったのは楚だ。造反諸将が君につくのは、君が楚の将軍の家系で、楚の子孫を王に立てるものと期待しているからだ」と。

項梁は頷いた。かつて秦に騙し討ちにあった楚の懐王の孫で、羊飼いをしている‘心’という男に“懐王”を名乗らせた。錦の御旗である。以後、范増は、項梁、続いて項羽の軍師として活躍、数々の功績を挙げていく。“鴻門の会”で存在感を示したことは先に触れました。

劉邦と彼の軍師となる張良との出会いは奇である。劉邦は、沛県で旗上げした後、必ずしも戦績が良いとは言えなかった。碭(現安徽省碭山)を攻略してやっと六千の兵を加えて兵九千の部隊に成長していたが、まだ自立はできない。ちょうどその頃、張良に逢った。

当時、陳勝の死は、“王将”の亡失を意味していて、“造反はおしまいだ”という空気があった。“頭(王将)が要る”との考えが圧倒的で、張良は、“頭”を求めてさ迷っていた。偶然下邳の西方で活躍していた劉邦と逢う。

「天下を経略する妙法はないものか?」劉邦は人懐っこく張良に問うた。「太公望の兵書には、揺るぎないものを人々に与えた者こそ天下を経略しうる」 と。劉邦:「迷っていても迷っている風を見せてはならん と?」張良:「さよう」。

十余万の兵を率いた項梁が薛にいること知ると、張良は劉邦に言う:「五千ほど兵を借りに行きなさい。二千なら貸さないだろうが、五千なら貸すよ」と。果たして項梁は、五千の兵卒と十人の将校を劉邦に貸したのである。劉邦は、項梁の配下となったわけでもある。

劉邦は、借りた五千の兵を率いて、薛からの帰り道、馬上考え考え帰って来たが、張良に「おまえの提言の意味がやっとわかったよ」と。張良:「おわかりになれば、それで結構です」と。

その心は、二千なら九千の中に溶け込んでしまい貸す妙味がないが、五千なら部隊の中核となり、あわよくば九千の部隊を乗っ取ることも可能である と。張良は、「九千を乗っ取られないよう注意せよ」と。

劉邦は、「何事もお前に任せて大丈夫のようだ。以後、お前の言には、理由を聞かずに実行するよ」と、張良に心服した様子である。一方、張良は、「こいつは人物だ。人の言葉に耳を傾ける、誤りを指摘されても悪びれずに訂正できる」と、劉邦を買っていた。お互い結びつきを深めていった。

張良は、父や祖父が曾ての大国・韓の宰相で、名門の出である。太公望の兵書を学んでいた。秦に対し復讐心が強く、巡行中の始皇帝に鉄槌を投げ込み、暗殺を謀ったこともある。失敗に終わり、逃亡中の身であった。

逃亡の間、食客を多数養い、世の中の動静を注視していた。殺人の廉で追われていた項梁と項伯を匿ったことがある。項梁は二日ほどであったようだが、項伯は結構な期間匿ってもらったようである。その恩義を感じた項伯が“鴻門の会”で剣舞を舞ったことは既に触れた。

世の中が騒々しい中、秦朝廷の中枢はどのような状況であったろうか。続けて次回に見て行きます。

[追記]
先に閑話休題40の修正稿を出しました。修正部分は、漢詩「拜古樹縄文杉」の差し替えです。実は、恥ずかしながら、当時、詩作での“押韻”の規則に不慣れでした。今回、脚韻を踏み、少なくとも形の上では、近代詩(唐詩)として、整った漢詩となったかな と。改めてご鑑賞頂けると有難い。
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