第四皇子の最後のセリフ:「馬の耳に念仏」(邦語字幕による)について考えていきます。“馬の耳”に関する表現では、よく使われる術語として「馬耳東風」もあります。しかし両者はちょっとニューアンスが異なるように思われます。その辺を見ていきます。
似たような意味で、日本で使われている術語に「牛に対して琴を弾く」があるが、これは中国の「対牛弾琴(duì niú dànqín)」の邦訳と考えてよいでしょう。この四字術語は、いわゆる故事成語として、その由来となる立派なお話があります。その故事を簡単に紹介します。
中国は戦国時代、公明儀という七絃琴の名手がいた。通常は室内で演奏しているが、天気の良い日には、よく郊外に出て青草の原っぱで演奏することを楽しみにしていた。春風がそよそよと吹いて、柳の枝が軽く揺らいでいるある春の日、悠々と草を食んでいる一頭のウシが目に止まった。
公明儀は、興味が湧いて、ウシに琴を弾いて聴かそうと、雅やかで上品な曲を演奏した。ウシは全く無関心な様子。それでは、と自分の最も得意とするおハコの曲を演奏した。だがウシはシッポを振り、アブを追いながら、悠々と草を食み、終には立ち去り、場所を変えて草を食みだした。
公明儀は、失望し、嘆息した。周りの人々は、「あなたの演奏がよくなかったのではなく、ウシの耳には合わなかったのだ」と言って慰めてあげた と。
似たような意味の術語で各種の家畜動物が登場します。「牛に経文」、「豚に真珠/念仏」、「犬に論語/経」、「猫に小判/経/念仏」 等々。これらはいずれも「対牛弾琴」をヒントに日本で生まれたのではないでしょうか。昔の日本人の“落語”的発想で生み出された遊び心の表れでしょう。
次に、「馬耳東風」に触れますが、それは唐の時代の詩人李白の詩が出典です。その詩は末尾に挙げたが、50句からなる長編であるため、本題に関連のありそうな数句を抜粋し、その他の句の部分は概要を示すに留めた。百度百科の解釈を参考にした読み下し及び現代語訳も示しました。
李白についてはすでに触れた(2016.11.23、閑話休題22参照)が、彼がまだ玄宗皇帝の下で“翰林供奉”として宮仕えしていた頃の話です。王十二という友人から「寒夜独酌有懐」と題する一首の詩を贈られた。宮廷では高力士など宦官が幅を利かしていた頃です。
王十二については、その生没年を含めて人物やこの詩の内容について詳細は不明である。想像されることは、周りに受け入れられず、鬱積する心を抱えて、不遇を李白に訴えていたのでしょう。それに対する答えとして作られたのが「答王十二寒夜独酌有懐」です。
王十二は、ある寒い夜、酒を酌みながら李白を思い出し、想いの内を詩にして李白に訴えた。詩中、子猷が雪後の寒夜、酒を酌みながら友人の戴安道を思い出して、舟を出して戴を訪ねようとしたこととちょうど重なります。
世間では学識のない俗物が出世して、真の賢才には陽の目が当たらない。我々がいかに詩や賦の傑作を作ろうと連中にはその良さは理解されないのだ。吟じて聞かせても、そっぽを向いて、聞こうともせず “馬耳東風”なのだ。
富貴・豪奢な暮らしなど、見栄であり、われわれ詩人にとっては元より願いではないのだ。わたしは青年のころより、越王に仕えて功なった後、直ちに身を引いた范蠡の生き方に憧れの姿を見ていた。
李白は、この詩の中で、多くの先人たちを例示しながら、自分の当世観を慷慨の口調で語りつつ、君のような優れた人物は今の世で入れられないのは当然である。周りの俗物に気を揉むことはないよ と王十二を励ましています。
これら両出典を紐解くと、「馬の耳に念仏」と「馬耳東風」は、ややニューアンスが異なるように思われる。使用に当たっては注意した方がよいのではないでしょうか。
中国の成語「対牛弾琴」から発した「馬の耳に念仏」を始めとする、その他動物に経や、真珠、小判、論語などを対応させた熟語はいずれも、“話し手”が主導的な役割をしていることが判ります。すなわち、聞く側は全く内容が理解できず“愚者”なのである。
一方、「馬耳東風」では、“聞き手”が主導的である。つまり、“馬”で表された“聞き手”は、話し手の言うことを、春風が馬の耳に吹きつけるように、心に留めず、聞き流すことであり、内容を理解しているか否かは問うていません。
以上見てきたように、第四皇子のセリフは、いずれも短いながらかなり意味深な内容のようです。次回はまとめて考えて行きます。
[蛇足]
「馬耳東風」で「牛耳東風」などとしてはいけません。“牛耳”は全く異なる意味を持っています。すなわち“牛耳(ギュウジ)る”とか“牛耳を執る”などと使用されます。いずれも、“団体や組織の中心となって自分の思い通りに事を運ぶ”ことを意味しています。
xxxxxxxxxxxx
答王十二寒夜独酌有懐 王十二の「寒夜独酌して懐う有り」に答う 李白
原文と読み下し
1 昨夜呉中雪, 昨夜 呉中(ゴチュウ)雪あり,
2 子猷佳興発。 子猷(シユウ) 佳(ヨミ)して興(キョウ)を発す。
16 万言不値一杯水。 万言(マンゲン) 値(アタイ)せず一杯の水。
17 世人聞此皆掉頭、 世人 此を聞くも皆 頭を掉(フ)り、
18 有如東風射馬耳。 東風の馬耳を射(イ)るが如き有り。
49 少年早欲五湖去、 少年 早(ツト)に五湖を去らんと欲す、
50 見此弥将鐘鼎蔬。 此れを見るに弥(イヨイヨ)将(マサ)に鐘鼎(ショウテイ)と蔬(ソ)とす。
現代語訳
1 昨夜は呉では大雪であった、
2 子猷は雪後の月を称賛せんと興を起こした(註1参照)。
16 それが万言に及ぶ傑作であろうと一杯の水にも値しない。
17 世の人々は、これを聞いても皆 頭を振る、
18 そのさまは馬の耳に一陣の東風が吹くようなものである。
50 これらを知るにつけ、わたしは富貴・功名から身を遠ざけようと思った。
註1] 子猷(338~386):東晋の人、王徽之(オウキシ)の字。風流を好み、特に竹を愛した。書家・王義之の第5子。
[故事] 子猷はかつて会稽の山陰で、ある夜雪がはれて月の色が美しいので、独り月に対して酒を酌み読書をしていた。ふと友人の戴安道(タイアンドウ)が剡渓(センケイ)に居ることを思い出して、ともに月を愛でようと、直ちに舟を命じて剡に赴いた。だが、まさに戴の門前まで来たが、その門を叩かず、舟を引き返した。友人が訝って、その訳を問うと、「元々興に乗じて行ったのであるから、興が尽きれば帰る他ないでしょう」と。戴の門前に至った時には、すでに夜が明けていたのである。
註2] 各句頭の数字は、便宜のため筆者が付したものである。
似たような意味で、日本で使われている術語に「牛に対して琴を弾く」があるが、これは中国の「対牛弾琴(duì niú dànqín)」の邦訳と考えてよいでしょう。この四字術語は、いわゆる故事成語として、その由来となる立派なお話があります。その故事を簡単に紹介します。
中国は戦国時代、公明儀という七絃琴の名手がいた。通常は室内で演奏しているが、天気の良い日には、よく郊外に出て青草の原っぱで演奏することを楽しみにしていた。春風がそよそよと吹いて、柳の枝が軽く揺らいでいるある春の日、悠々と草を食んでいる一頭のウシが目に止まった。
公明儀は、興味が湧いて、ウシに琴を弾いて聴かそうと、雅やかで上品な曲を演奏した。ウシは全く無関心な様子。それでは、と自分の最も得意とするおハコの曲を演奏した。だがウシはシッポを振り、アブを追いながら、悠々と草を食み、終には立ち去り、場所を変えて草を食みだした。
公明儀は、失望し、嘆息した。周りの人々は、「あなたの演奏がよくなかったのではなく、ウシの耳には合わなかったのだ」と言って慰めてあげた と。
似たような意味の術語で各種の家畜動物が登場します。「牛に経文」、「豚に真珠/念仏」、「犬に論語/経」、「猫に小判/経/念仏」 等々。これらはいずれも「対牛弾琴」をヒントに日本で生まれたのではないでしょうか。昔の日本人の“落語”的発想で生み出された遊び心の表れでしょう。
次に、「馬耳東風」に触れますが、それは唐の時代の詩人李白の詩が出典です。その詩は末尾に挙げたが、50句からなる長編であるため、本題に関連のありそうな数句を抜粋し、その他の句の部分は概要を示すに留めた。百度百科の解釈を参考にした読み下し及び現代語訳も示しました。
李白についてはすでに触れた(2016.11.23、閑話休題22参照)が、彼がまだ玄宗皇帝の下で“翰林供奉”として宮仕えしていた頃の話です。王十二という友人から「寒夜独酌有懐」と題する一首の詩を贈られた。宮廷では高力士など宦官が幅を利かしていた頃です。
王十二については、その生没年を含めて人物やこの詩の内容について詳細は不明である。想像されることは、周りに受け入れられず、鬱積する心を抱えて、不遇を李白に訴えていたのでしょう。それに対する答えとして作られたのが「答王十二寒夜独酌有懐」です。
王十二は、ある寒い夜、酒を酌みながら李白を思い出し、想いの内を詩にして李白に訴えた。詩中、子猷が雪後の寒夜、酒を酌みながら友人の戴安道を思い出して、舟を出して戴を訪ねようとしたこととちょうど重なります。
世間では学識のない俗物が出世して、真の賢才には陽の目が当たらない。我々がいかに詩や賦の傑作を作ろうと連中にはその良さは理解されないのだ。吟じて聞かせても、そっぽを向いて、聞こうともせず “馬耳東風”なのだ。
富貴・豪奢な暮らしなど、見栄であり、われわれ詩人にとっては元より願いではないのだ。わたしは青年のころより、越王に仕えて功なった後、直ちに身を引いた范蠡の生き方に憧れの姿を見ていた。
李白は、この詩の中で、多くの先人たちを例示しながら、自分の当世観を慷慨の口調で語りつつ、君のような優れた人物は今の世で入れられないのは当然である。周りの俗物に気を揉むことはないよ と王十二を励ましています。
これら両出典を紐解くと、「馬の耳に念仏」と「馬耳東風」は、ややニューアンスが異なるように思われる。使用に当たっては注意した方がよいのではないでしょうか。
中国の成語「対牛弾琴」から発した「馬の耳に念仏」を始めとする、その他動物に経や、真珠、小判、論語などを対応させた熟語はいずれも、“話し手”が主導的な役割をしていることが判ります。すなわち、聞く側は全く内容が理解できず“愚者”なのである。
一方、「馬耳東風」では、“聞き手”が主導的である。つまり、“馬”で表された“聞き手”は、話し手の言うことを、春風が馬の耳に吹きつけるように、心に留めず、聞き流すことであり、内容を理解しているか否かは問うていません。
以上見てきたように、第四皇子のセリフは、いずれも短いながらかなり意味深な内容のようです。次回はまとめて考えて行きます。
[蛇足]
「馬耳東風」で「牛耳東風」などとしてはいけません。“牛耳”は全く異なる意味を持っています。すなわち“牛耳(ギュウジ)る”とか“牛耳を執る”などと使用されます。いずれも、“団体や組織の中心となって自分の思い通りに事を運ぶ”ことを意味しています。
xxxxxxxxxxxx
答王十二寒夜独酌有懐 王十二の「寒夜独酌して懐う有り」に答う 李白
原文と読み下し
1 昨夜呉中雪, 昨夜 呉中(ゴチュウ)雪あり,
2 子猷佳興発。 子猷(シユウ) 佳(ヨミ)して興(キョウ)を発す。
……
……(省略)
……
15 吟詩作賦北窓裏, 詩を吟じ賦(フ)を作(サク)す北窓(ホクソウ)の裏(ウチ), ……(省略)
……
16 万言不値一杯水。 万言(マンゲン) 値(アタイ)せず一杯の水。
17 世人聞此皆掉頭、 世人 此を聞くも皆 頭を掉(フ)り、
18 有如東風射馬耳。 東風の馬耳を射(イ)るが如き有り。
……
……(省略)
……
……(省略)
……
49 少年早欲五湖去、 少年 早(ツト)に五湖を去らんと欲す、
50 見此弥将鐘鼎蔬。 此れを見るに弥(イヨイヨ)将(マサ)に鐘鼎(ショウテイ)と蔬(ソ)とす。
現代語訳
1 昨夜は呉では大雪であった、
2 子猷は雪後の月を称賛せんと興を起こした(註1参照)。
山には雲がめぐり、中天には月が懸かっている。
月は爽やかに、銀河は澄んで見え、金星が輝いている。
……
君は酒を酌みながらわたしを思い出したのであろう。
……
賈昌の如き闘鶏の技に勝れた輩が都大路を鼻高々に闊歩し、
哥舒翰の如きがわずかな功を盾に英雄気取りである、
君はこのような真似ができるか。
15 わたしは北窓に拠って詩を吟じ、賦を作る、月は爽やかに、銀河は澄んで見え、金星が輝いている。
……
君は酒を酌みながらわたしを思い出したのであろう。
……
賈昌の如き闘鶏の技に勝れた輩が都大路を鼻高々に闊歩し、
哥舒翰の如きがわずかな功を盾に英雄気取りである、
君はこのような真似ができるか。
16 それが万言に及ぶ傑作であろうと一杯の水にも値しない。
17 世の人々は、これを聞いても皆 頭を振る、
18 そのさまは馬の耳に一陣の東風が吹くようなものである。
……
(かつて越王勾践に仕え、勾践を春秋五覇に数えられるまでに押し上げた最大の功労者・范蠡(ハンレイ)は、功なるや直ちに五湖の地を離れて何処にか隠居した。)
49 わたしは若い頃、既に同様の志を持っていた。(かつて越王勾践に仕え、勾践を春秋五覇に数えられるまでに押し上げた最大の功労者・范蠡(ハンレイ)は、功なるや直ちに五湖の地を離れて何処にか隠居した。)
50 これらを知るにつけ、わたしは富貴・功名から身を遠ざけようと思った。
(功名を盾に富貴・豪奢を誇るのはただの見栄に過ぎないのだ。)
註1] 子猷(338~386):東晋の人、王徽之(オウキシ)の字。風流を好み、特に竹を愛した。書家・王義之の第5子。
[故事] 子猷はかつて会稽の山陰で、ある夜雪がはれて月の色が美しいので、独り月に対して酒を酌み読書をしていた。ふと友人の戴安道(タイアンドウ)が剡渓(センケイ)に居ることを思い出して、ともに月を愛でようと、直ちに舟を命じて剡に赴いた。だが、まさに戴の門前まで来たが、その門を叩かず、舟を引き返した。友人が訝って、その訳を問うと、「元々興に乗じて行ったのであるから、興が尽きれば帰る他ないでしょう」と。戴の門前に至った時には、すでに夜が明けていたのである。
註2] 各句頭の数字は、便宜のため筆者が付したものである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます