愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 311 飛蓬-165  紅の 千入(チシホ)のまふり…… 三代将軍源実朝

2022-12-26 10:03:09 | 漢詩を読む

『金槐和歌集』の雑部に収められた一首です。山の端に広がる真っ赤に染まった夕焼け空に接し、一気に詠んだように思える。感動を直截に歌にしています。一気に詠み切った実朝の歌は、漢詩では五言絶句にピッタリです。

 

 [詞書] 山の端に日の入るを見て詠める 

紅の 千入(チシホ)のまふり 山の端に 

   日の入るときの 空にぞありける  (源実朝 『金塊和歌集』雑・633) 

  註] 〇千入:幾度も染料に浸して染めること; 〇まふり:色を水に振り

   出して染めること。 

 (大意) 水に浸した紅花に繰り返し染めて深染めされた色、それは日が山の

   端に沈んだときに見られる夕焼けの空の色であるのだなあ。 

    

xxxxxxxxxx

  美麗紅染衣   美麗(ウルワシ)き紅染(クレナイゾメ)の衣(コロモ)   [下平声六麻韻]

重複染紅紗, 重複(クリカエシ) 染められし紅(クレナイ)の紗(ウスギヌ), 

娟娟彩自誇。 娟娟(ケンケン)として 彩(イロドリ)自(オノズカラ)誇る。 

美観何所似, 美観 何に似たる所ぞ, 

正是映晚霞。 正(マサ)に是(コ)れ 夕陽に映える晚霞(バンカ)の色。 

 註] 〇紅染:紅花により染色する染色法; ○紗:薄手に織られた絹織物、

  但し歌では特定されていない; 〇娟娟:清らかで美しいさま;  

  ○映:反映する、光を受けて照り輝く; 〇晚霞:夕焼け。 

<現代語訳> 

 美しい紅染めの衣 

幾度も繰り返し深染めされ、紅に染まる薄絹の色、

清らかで美しく映える彩は、これ見よがしに自ら誇示するが如くに見える。

その美しさは、何に譬えられようか、

これは正に山の端に日が沈む頃の、真っ赤な夕焼けの空の色なのだよ。

<簡体字およびピンイン> 

 美丽红染衣   Měilì hóng rǎn yī  

重复染红纱, Chóng fù rǎn hóng shā 

娟娟彩自誇。 juān juān cǎi zì kuā.  

美观何所似, Měi guān hé suǒ sì,  

正是映晚霞。 zhèng shì yìng wǎn xiá.  

xxxxxxxxx

 

実朝の歌は、その詞書から推して、真っ赤な夕焼けの空に直面して、それから起こる感動を歌にしたことは明らかであろう。その感動は、“真っ赤な夕焼けの空の色”から“紅染の衣”に収斂していったように読める。この歌の主題は“紅染の衣の色”であろう。

 

すなわち、歌の1および2句で、これまでの経験を通して、“何と美しい色であろうか!”と記憶に焼き付いていた“紅の深染の衣”の色、3以下の句で、この“紅色”は、眼前の“真っ赤な夕焼けの空の色”であるのだ!と。このような主旨で漢詩を書きました。

 

実朝の歌には、為世者としては珍しく(?)、庶民に目を向けた歌が多い。この歌においても、作歌の心底には、単に紅染の美麗な色というだけでなく、美しい紅染の染色工程、さらには染色に携わる人々への思い遣りの心が潜んでいたのではないでしょうか。

 

歌人・源実朝の誕生 (6) 

 

『金槐和歌集』について簡単に整理しておきます。先ず書名について、誰が名付けたかは不明です。時に『鎌倉右大臣家集』とも呼ばれるようです。“金塊”の名称は、“鎌倉右大臣”を唐風に洒落て言ったのであろう とされている。

 

すなわち、佐佐木信綱(1872~1963)の説に従えば、“金”は、鎌倉の“鎌”の字の偏、“槐”は、唐風で“大臣”の異称で、“金塊”の二字で、“鎌倉の大臣”の意となります。『鎌倉右大臣家集』を誰の発案で、何時から『金槐和歌集』と呼ぶようになったか不明である。またその写本は以下2系統知られているが、その原本は知られていない。 

 

『金槐和歌集』には、“定家所伝本”と“貞享(ジョウキョウ)四年板本”の大きく2系統あり、部立てや収載歌数など内容に違いがある。前者では春夏秋冬賀恋旅雑の部立てで、歌数663首、後者では春夏秋冬雑の部立てで、歌数716首が収められている。後者の実収載歌数は719首であるが、3首は実朝以外の作者による歌 とのことである。

 

“定家所伝本”は、1929(昭和4)年5月、佐佐木信綱により発見され、その奥書に「建暦三年十二月十八日」の記載がある と。実朝自身が編纂し、藤原定家に贈り、定家が写して自家に留めて置いたものと考えられている。実は、建歴三年は、十二月六日に改元せられていることから、この奥書にも細かい点で疑問が残っているようである。 

 

一方、同集の最後を「太上天皇の御書 下し預かりし時の歌」3首で締めていることから、後鳥羽上皇に献上されたのちに、定家が写して留めていたのではないか とも考えられている。また巻頭は定家が書いていることもあり、同集の編纂は定家が行ったのではないか等々、その成立事情、時期ともに定かではない。 

 

一方、“貞享四年本”は、「柳営亜槐なる人 改編」の奥書があることから、「柳営亜槐本」と呼ばれることもある。“柳営”とは“将軍”、“亜槐”とは“大納言”の異称である。そこで最も相応しい人物として、鎌倉幕府の第4代征夷大将軍・藤原頼経(フジワラノヨリツネ)が擬せられていた。

 

後に1968年、益田宗(?)が室町幕府第八代将軍・足利義政(1436―1490)であろうと提唱、定説となっているようであるが、最近(2013)、小川剛生(1971~)は、義政次代の義尚(1473~1489)が1483(文明15)年前後に編纂した と論証している。ただし未だ定説には至っていないという。筆者は、これらの最新資料には未だ直接接していない。

 

“貞享四年本”には、“定家所伝本”に含まれない、主に“定家所伝本”の成立後に詠われた歌であろうとされる歌が追加収載されている。また追加歌の検討から、実朝没(1199)後、『続後拾遺和歌集』成立(1326年)以前に、鎌倉で編纂されたであろう とされており、上述の最新の論述と齟齬をきたしている。なお、両系統間で、必ずしも歌番号の一致はない。

 

後世、歌人としての実朝は、当初は“万葉調”歌人として世に喧伝されて来たが、『金槐和歌集』中、 むしろ“新古今調”の歌数の方が多数であること等から、今日、実朝は『新古今集』の影響をより大きく受けた歌人である とされてきている。

 

最後に『金槐和歌集』の特徴をもう一点。同集に含まれる歌には、同一の題で幾通りにも作られた、また同一の構想を幾通りにも作り変えてみた、と想像させる複数の歌が並んで載せられている、すなわち、歌の“習作集”であるという一面があるようである。

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