老人と海 (2) (2種類の翻訳本)
前回 福田本と小川本の冒頭部分の数行を引用し、その違いを比較してみました。翻訳者によって表現の違いがよく理解できたここと思います。
小川高義翻訳本(光文社古典新約文庫)の帯には次のようなキャプションがあるので紹介します。 『従来この作品は、一種の活劇のように捉えられてきた。老人は獲物と格闘し、船上で叫び、大声で罵る。しかし作品本来の姿は、老人の内面のドラマを淡々と描いた、極めて思索的なものだ……』
お気づきのように、「従来」で始まる前段が福田本で「しかし」で始まる後段が小川本である。
巨大なカジキマグロが針にかかり、この大魚をものにした時には港を出てから三度目の太陽が昇り、48時間が経過していた。全長18フィート(5.4メーター)、重さ1500ポンド(675㌔)。老人の小舟は4.8メーターだから、船よりも大きなカジキを死闘の末に仕留めたことになる。その仕留める直前の描写を比べてみよう。
福田本: 老人は玉のような汗を流している。あながち太陽のためばかりではない。魚が穏やかにゆっくりひっくりかえってくるたびに、かれは網を手もとにたぐりよせていた。もうふた回りもすれば、銛が打ちこめる距離になるだろう。だが、おれはやつを、できるだけこっちへ引き寄せるようにしなければいけない、かれは心のうちでそう思う、頭なんかねらうんじゃないぞ、心臓をぐさりとやっけるんだ。
小川本:老人は汗をかいていたが太陽の生ばかりではない。ゆったりと魚が回るたびにロープを手繰り寄せていて、あと二周もすれば銛を突き立てる機会があると思っていた。だがじっくりひきつける。寄せる。寄せる。寄せる。頭はだめだ。心臓をねらう。
同じ部分の翻訳だが、福田本は刺激的、感覚的な表現の文章だが、小川本は文節を短文で仕上げより簡潔に老人の内面を表現しようとしているのがわかる。そして、例に引いた文章の直後の翻訳はもっとその差がはっきり出ている。
福田本:「落ちつけ、元気を出すんだ、爺さん」とかれは自分に向っていった。
小川本:「あわてるなよ、じいさん」
福田本では「彼は自分に向かっていった」。と説明があり、自分で自分のことを励ますサンチャゴ老人の姿がイメージできる。小川本は一切の説明を避け、「あわてるなよ、じいさん」と飾りのないハードボイルド調の翻訳になっている。
銛(もり)で突き殺し、巨大な獲物を小さな船にくくりつけ、港に帰る老人に次の試練が訪れる。鮫が現れ、戦利品に食らいつくのだ。老人は戦利品を守るために、鮫に向かって棍棒を叩き下ろし、死闘を繰り返し、翌朝、船が港に着くころ戦い敗れた老人に残された物は、骨だけになった戦利品の無残な姿だった。この小説のクライマックスである。
福田本:「けれど、人間は負けるように造られてはいないんだ」とかれは声に出していった、「そりゃ、人間は殺されるかもしれない、けれど負けはしないんだぞ」それにしても、かわいそうなことをした、おれは魚を殺してしまったんだ、とかれは心のうちで考えた。いや、それどころじゃない、お前は窮地に追いこまれてしまった。そうだ、もう銛もない。
小川本:「だが、人間、負けるようにはできてねえ。ぶちのめされたって負けることはねえ」だから魚には悪いが死んでもらった。さあ、これからが難関だ、というところで銛がなくなっている。
外面描写で淡々と表現する福田本と余計な表現をそぎ落とし、センテンスの短い文で表現するハードボイル調の小川本。同じ原作本が翻訳者によってこれほど異なり、作品の持つ雰囲気も違ってしまうことがおわかりになれたことと思います。
明け方、港に帰り着いたサンチャゴ老人。疲労困憊し、岩の裾の砂利の上に小舟をつけ、粗末な小屋のベッド倒れこみ、深い眠りに陥る。最後の二行は次のように書かれている。
福田本:道のむこうの小屋では、老人がふたたび眠りに落ちていた。依然として俯伏せのままだ。少年がかたわらに座って、その寝姿をじっと見まもっている。老人はライオンの夢を見ていた。
小川本:この道を行った先の小屋では、また老人が眠っていた。うつ伏せになったきりで、少年が付き添って座っている。老人はライオンの夢を見ていた。
原作の中に「少年」や「アフリカの海岸で寝そべるライオン」や「腕相撲」の話などが書かれていますが、いずれもこの小説に欠かせない、物語に深みを与える重要な部分になっています。興味のある方はぜひ読んでください。どちらの翻訳本も面白く読めます。
(おわり)