読書案内「長いお別れ」②
記憶を失い、やがて自分の存在さえ…
壊れていく父の姿を描く
老夫婦の二人きりの生活の中に、夫・昇平の認知症が徐々に進行していく。
やがて症状は日常生活にも支障をきたすようになる。
昇平の認知症は、発症してから七年が経とうとしていた。最初の五年間はそれでも、さほどの進行をもたらさなかったように見えたけれど、ここ二年ほどは人の目をごまかすわけにもいかなかった。
話のつじつまが合わなくなってくる。意味のない言葉が口を突いて出る。やがて意味のある言葉が少なくなり、会話自体が成り立たなくなる。家に帰る道を忘れてしまう。何処にいても「帰る」といってその場を離れようとする。慣れ親しんだ家にいても「帰る」という。
こうした現象を著者はやさしい目で見つめ、次のように描写する。
意味のつながらない言葉たちが、年老いた父から漏れる。
何か言おうとして、違う言葉が出てきてしまうのか、それとも、もう言おうと思う中身そのものが壊れ
てしまっているのか、芙美(娘)にはわからない。おそらくは何か言いたいことがあって、言えないもどかしさもあるのだろうと想像するのだが、まるで聞いたことのない言葉を繰り出す老人の前に、何ひとつしてあげられなくて困っていると、相手は哀し気に伝えることを諦め、あるいは忘れて、ますますここではないどこかへ帰りたがってしまうのだ。
作者の優しい目があるから、今まさに現在進行形で壊れていく老人の苦しみや、家族の不安を素直に受け止めることができる。ここに描かれる家族の絆は、父の介護を中心にして、妻として娘として、信頼関係という絆で結ばれている。誰が父の介護をするのか。やがては訪れるであろう高齢の母の介護を含めて、家族が一眼となって対処していく姿に清々しさを感じる。とは言え、三人の娘たちにはそれぞれの生活があり、それを守りながら無理のない両親への介護計画を話し合う。
なんと素晴らしい家族のつながりだろう。差し迫った老親の介護を控えながら、三人の娘たちはこの問題を積極的に解決しようと話し合い、検討を重ねる。
やがて、昇平の最期の時が来た。
淡々と来るべき時を迎えた昇平を見守る妻と三人の娘たち。
自分を失い、壊れていく人格にしばしば家族たちは絶望感を抱き、見るのが辛いと嘆く。
余りにも悲しい人生の最期ではないか。しかし、小説の中の登場人物たちは『記憶や言葉が失われていくのは悲しく、つらいことも少なくなかったが、父は楽しい思い出もたくさん残してくれた。電話で愚痴をこぼした時などは、話の内容は理解していないはずなのに声のトーンで察したのか、ままならぬ言葉で慰めようともしてくれた』と。
作者の目は何時も温かい。
私は、読み終わって、昇平を取りまく家族たち、とくに健気に夫と共に生きていこうとする妻の曜(よう)さんに、いつのまにか頑張れと応援していた。
タイトルの由来
認知症のことを英語で「ロンググットバイ」と言うそうです。
少しずつ少しずつ記憶を失っていく。人格を失いほぼ全面介助になり、長い長い時間をかけて、ゆっくりゆっくり最期に向かって遠ざかっていく、「長いお別れ」。
心に残り、とてもいい小説です。
(読書案内№123-2) (2018.06.08記)
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