読書案内「南三陸日記」
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② 防災対策庁舎
誰のために記事を書くのか。
その命題を忘れないよう、毎朝通う場所がある。( 冒頭2行を引用)
その場所が、南三陸町の防災対策庁舎だ。
(図1 震災間もなくの頃の防災庁舎)
かつては防災対策庁舎をめぐり「保存」か「解体」かで、町が真っ二つに割れ時期もあった。
この庁舎で「津波が襲来しています。高台に避難してください」。
24歳の防災放送担当職員・遠藤未希さんが、防災無線で懸命にアナウンスしていた。
2011(平成23)年3月11日午後2時46分、東日本大震災に関わる地震が、宮城県南三陸町を襲った。
「震度6弱の地震を観測しました。津波が予想されますので直ちに高台に避難してください」
地震発生の直後から、二階防災対策庁舎で未希さんは、町民への非難を呼びかけました。
そして間もなく、河口近くの潮が引いているのを目撃し、未希さんはマイクに向かって緊張した声を
送りました。
「異常な潮の引き方です、逃げてください。高さは6㍍の大津波警報が発令されました。早く、
早く高台に避難してください」
「ただいま宮城県内に10メートル以上の津波が押し寄せています。逃げてください」
数十回の避難の呼びかけにね多くの人々が高台めざして非難した。
3階建ての防災対策庁舎の屋上2メールを越える大津波は、町を飲み込み
多くの犠牲者を出した。
震度7にも耐えられる防災拠点として建てられた鉄骨3階建ての建物を、
高さ15.5mの津波はやすやすと乗り越えていき、屋上に避難した町職員ら計41名が犠牲となった。
アンテナに上る人、しがみつく人、フェンスにしがみつく人。
力尽きて流された人を見ていながら、何もできなかった人。
生存者は10名。
その中に、避難を呼びかけた遠藤未希さんの姿はなかった。
未希さんの遺体が見つかったのは、津波発生から43日後でした。
(図2 防災対策庁舎三階の屋上に津波が襲う)
(2011.3.11午後3時34分 南三陸役場職員・加藤信夫さん撮影)
この写真をよく見てください。カメラの視点は屋上よりも上にあり、
屋上を見下ろすように撮られている。
つまり、撮影者の加藤信夫さんは、
図1に薄く映っている屋上のアンテナに上って撮っていることが分かる。
「被害を伝えるために震災遺構として残すべきだ」という声は、
震災を乗り越え震災遺構として後世に語り伝え、教訓として何を伝えていくのかという、
大切な道標(モニュメント)としての思いが込められているのでしょう。
一方、「震災を思い出してしまう」という声もある。
『防災対策庁舎』が遭遇し、そこで起こった悲劇を思い起こすたびに、この町で起こった数えきれない悲劇を思い出してしまう。そんな哀しいことを「思い出したくない」というのも人情です。
人口1万4000人の南三陸町が揺れた。
町役場は解体を決めたが、県が保存要請。
案内板には次のような説明がある。
現在、防災対策庁舎は令和13年(2031年)3月10日まで県有化されており、
南三陸町は、この間に震災遺構としての保存の是非について検討していきます。
その後の構成は、当時の新聞記事によるものです。
この事実を皆さんにお知らせし、このことと、「南三陸日記」がどうかかわって来るのか、
同時に報道の在り方にも触れたいと思います。 著者が「毎日通う場所」で何があったのか。
次回に記載します。
(つづく)
(読書案内№173) (2021.5.5記)
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