墜ちたB29 米兵を助けた日本人
②墜ちて来たB29
なぜ墜たB29の詳細がわからないのか。
これに関連した新聞記事をみてみましょう。
【当時、追撃されたB29の搭乗員の遺体は、「鬼畜米兵」の見本として一週間も現場の翼上に展示されていた】
(1998.5.8 H10 朝日新聞)
この記事は、戦時中のアメリカ軍の無差別爆撃に対する報復として生存兵が虐待され、
戦士した兵が遺棄されたことを物語っています。
墜落した生存米兵に、石を投げたり、棒で叩き、寄ってたかって暴力を振るったなど、
この種の話は沢山聞くことができます。
敗戦を迎え、GHQが調査に乗り出すとどのような仕打ちをされるかわからないと、
事実の陰蔽が行われたから、
公的記録はもちろんのこと、
民衆の口は貝のように閉ざされたまま、事件は闇に葬られてしまったようです。
私は今年の「語り伝えよう太平洋戦争」では、
東京大空襲を取り上げようと資料を集めていました。
その過程で偶然「茨城に落ちたB29 米兵を救った日本人」という草間秀三郎氏が書いた本を発見しました。
茨城県のつくばみらい市(当時板橋村 筑波郡伊奈町)に東京爆撃の任を終了したB29が墜落し、
板橋村の住民が生存米兵を助けたという記録です。
この事件も草間秀三郎氏が、掘り起こし、記録にとどめなければ、
歴史の闇に消えていたかも知れません。
当時、8歳の少年だった草間秀三郎氏が、
目撃したB29爆撃機の墜落事件を、50数年たってから関係者に聞き込み調査をして、
米兵の遺族を探し出し墜落時の全容を明らかにしました。
8歳の草間少年が目撃したB29墜落事件とは、どのような事件だったのでしょうか
(つづく)
(2018.8.22記) (語り継ぐ戦争の証言№18)
「墜ちたB29」は、「語り継ごう太平洋戦争の記憶」で講演した原稿を加筆、訂正したものです。 |
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます