銃なしで家族をどう守るの ②「目には目 歯には歯」
テキサス州・教会銃乱射事件について当時の市民の声を集めてみた。
「銃を持った住民が反撃したから、被害を増やさずに済んだ」
と銃で自衛する権利を擁護する声が米国では広がっているという。
概要は次のようだ。
現場付近に住む住民が銃声に気づき、ライフルを持って現場の教会に向かった。
「(容疑者)と目があって撃ちあいになった。私は防弾チョッキの隙間を狙った」
容疑者は銃撃された後、銃を捨て車で逃走。その後、逃走した車の中で遺体で見つかり、
足、胴、頭の3ヵ所に被弾していた。
自ら撃ち抜いたみられる致命傷となった頭部以外は住民に撃たれた傷だった。
以下、市民の声を記載します。
「幸運にも誰かが銃で応戦した。さもなければ被害はもっと悪化していただろう」(トランプ大統領)
「銃を持った犯罪者に一方的に襲われるのを防ぐには、銃で自衛するしかない」(周辺住民)
「銃を持つ相手に対して、銃なしで一体どうやって家族を守るのか?」(護身用に銃を所持する人)
「今回の事件が米国社会に突きつけた問いは、銃を持つか否かではない。教会にも銃を持っていくか否かだ」(農業従事者)
すでにお気づきのことと思いますが、
彼らの発言は「銃規制云々」ではなく、銃社会容認を前提した発言である。
良からぬ奴らが銃を持って襲ってくるから、
それに対抗するには「銃」が必要という論理である。
核軍縮が一向に進展を見ないのも、
「核の抑止力」をお題目に、必要論を展開する愚かしさにあるのではないか。
「核の抑止力」を認めるなら、
現在の核保有国だけに既得権として「核保有」を認めるのではなく、
すべての国に保有を認めなければ、余りにも矛盾した「核の論理」ではないか。
話は飛ぶが、明治元年(慶長4)になっても、
昔日の身分制度の栄華を捨てることができずに、
二本差しを差して往来する時代遅れの者がいたということだが、日本の場合は間もなく消滅した。
身分制度の崩壊と欧米化
アメリカ社会の歴史の中で培われた銃社会の論理。
ゴールドラッシュに富を求めて集まる荒くれどもや牛飼いの牧童に対抗するための保身や
土着民を征服するための武器の所持がフロンティア・スピリットという美名のもとで、
武器を必要としなくなった時代においても、
経済の発展と共に「武器産業」が発展した経緯がある。
「武器」や「核」によってかろうじて社会の均衡が保たれているとすれば、
そういう社会は病んだ社会だと思うのだが、いかがなものでしょう。
銃を持つことによって自分の命や家族を守ることができるのなら、
その銃によってたくさんの命が奪われる現実の矛盾をどう理解したらいいのだろう。
(2018.1.27) (昨日の風 今日の風№85) (おわり)
最新の画像[もっと見る]
- 「あゝ岸壁の母」③生きていた息子 3ヶ月前
- 「あゝ岸壁の母」②母はノートに胸の内を綴った 3ヶ月前
- 「あゝ岸壁の母」①岸壁に立つ私の姿が見えないのか 3ヶ月前
- 「あゝ岸壁の母」①岸壁に立つ私の姿が見えないのか 3ヶ月前
- パンダが帰った 4ヶ月前
- 松のある風景 ② 随筆の書かれた時代はいつ 7ヶ月前
- 松のある風景 ② 随筆の書かれた時代はいつ 7ヶ月前
- 松のある風景 ① 随筆に描写された古き鎌倉 7ヶ月前
- 駅弁 9ヶ月前
- 能登半島災害を謳う (1) 9ヶ月前
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます