東松島被災地区(3) 指定避難場所・野蒜小学校体育館の悲劇(1)
この地区も海岸に沿って発展していった地区であり、
津波は一気に押し寄せ、多くの犠牲者を出した。
野蒜小学校は海岸から約1キロ離れ、指定避難場所となっていた。
放課後の野蒜小には約60人の生徒が残っていたが、
地震発生後、地域住民と一緒に、およそ350名近くの人たちが体育館に避難したという。
周辺は1960年のチリ地震津波でも被害がなく、
市が作成した津波防災マップの浸水想定区域ににも入っていなかった。
しかし、市の防災計画では津波の際の避難場所を「校舎の二階以上」としていたが、
教育現場には「避難場所は体育館」との思い込みがあり、
他の複数の小学校も当初は体育館に避難していた。
市との連絡も不通になり、「津波」の情報もなかった。
地震発生の66分後の3時52分高さ3メートルの泥流が体育館を襲う。
2階ギャラリーに駆け上がる人、ギャラリーに逃れた人が、
紅白幕をロープ代わりにして投げ込んだ。
それに必死にしがみつく人、阿鼻叫喚の中、
「濁流は、真っ黒い渦を巻きながら避難してきた人たちを呑み込みました。
床から1メートルぐらいのステージに逃げた人たちは、緞帳をつかんだり、
お互いにしがみついたりしていましたが、水が引いた後、
多くの人が亡くなったことを知りました」(石井友恵さんの証言・河北新報)
(写真左側・野蒜小学校体育館、右は3階立ての校舎)
(つづく)
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