東松島被災地区(4)指定避難場所・野蒜小学校体育館の悲劇(2)
午後10時30分、ようやく水位が下がる。
3メートルの津波が体育館を襲ってから、6時間30分が経過していた。
電気の途絶えた暗闇の中で、互いの安否を気遣い名前を呼び合う親子。
避難した児童60人は全員助かったが、
近くにある特別養護老人ホームなどの40人が犠牲になったようである。
暗闇の中、外から助けが来ると、子どもや高齢者から隣の校舎の二階、三階への移動が始まった。
水の残る暗闇の体育館を出る時、4歳の女の子が言った。
『あの人、なんで寝てるの?』
目をそらして歩くには、遺体の数が多すぎた(中日新聞)。
外には雪が降りしきり、泥水に濡れた体を寒さが追い打ちをかけた。
「寒くて、寒くて。震えが止まらず、しゃべれなかった(河北新報)」と。
高齢者の場合、寒さによる低体温症でせっかく助かった命を失う者もいた。
校庭の泥水や瓦礫の中を、消防団員や父親たちが、板や畳で橋を作り、
子どもとお年寄りを誘導し、全員が校舎に移動できたのは真夜中だった(河北新報)。
市の防災計画では、「校舎の二階以上」と規定されている。
しかし、市立14小中学校のうち、野蒜小を含め、
7校が地震後、児童生徒や住民を体育館に避難させていたという。
多くの学校はその後、危険を察知し、校舎に移り、人的被害を免れたという。
市教委は、「学校は教育の場、一日も早く授業を再開させるためには、
避難場所は体育館というのが共通認識だった」と語り、
一方市防災交通課は、
「教育現場での対応は市教委や学校に任せていた」とし、
市教委と連携して計画やマニュアルの見直しを進める必要を説いている(読売新聞)。
野蒜小のケースは、
「津波への警戒心が薄く、少しでも高いところへ逃げるという原則が欠落していたのではないか」
と専門家は指摘する。
「初めから皆で校舎の方に逃げていれば……」
言葉を詰まらせた主婦の言葉が耳に残る。
(つづく)
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