ことの葉散歩道(9) (2015.5.13)
老いてゆく
超高齢社会でみんな歳を重ねておとろえていく。
加齢はすべての人が中途障害者になっていくようなもの。
どんな力のあった人もいずれ老いさらばえ、
ボケて人の世話になりながら死んでいく姿をさらす。
…略…要介護になっても、ボケても、
安心できる社会になればいいんです。
社会学者 上野千鶴子
朝日新聞(5月8日夕刊)「わたしの半生」の連載インタビューの中で、単純明快に歯に衣着せぬ論を展開する。
「中途障害者」なんて例えが良くないが、この人らしい表現である。
現実には年老いて、体力、知力とも徐々に減退し、人の助けなしには生きていけない状況が訪れる。
そうは理解していても、できることなら人間らしく生を全うしたいという思いは、万人が望む生き方だろう。
「要介護になっても、ボケても、安心できる社会になればいい」と、社会学者の上野氏は言う。
避けては通れない老いの坂道を下っていく不安は誰にでもある。
果たして、「安心できる社会」は実現できるのだろうか。
介護保険料はわずかではあるが、年々増加し、それでも自治体では資金不足で十分な介護を展開できない。
賃金の安い介護職に就く専門員も不足している。
介護施設の数も、急激な高齢化のスピードに追い付けず、入所待ちの時間は先が見えなほどど遠い。
一般的風潮として、「介護が必要になったら施設へ」という考え方がある。
確かに在宅介護は介護者に多大の負担を強いる。
そのことがわかっているから、「施設入所」という選択肢を安易に選択してしまう。
生まれて、育ち、子どもや孫がいる家で歳をとり、やがて親しい人たちに見守られて人生を全うする。
半世紀以上も前に崩壊してしまった家族の在り方だ。
経済的に満たされても、心に隙間風が吹くような社会は、「安心できる社会」ではなく、「貧しい社会」なのではないか。
豊かさの裏側で人間同士のつながりが少しずつ希薄になっていく「寂しい社会」でもある。
富士山に巨大な笠雲
と言う記事を書いた夢見るタンポポおばさんと申します。
この度は私のブログに訪問して頂きありがとうございます。
実は、私は要介護2の中途障害者です。
在宅で夫の介護を受けながら生活しています。
あなた様の記事を読ませて頂きとても嬉しかったです。
こんなにわかって下さる方がいらっしゃるのだととても心強く思いました。
障害者になると、頭もダメと思われてしまうことが多いのです。
慢性的な疼痛を伴う原因不明の難病の為に、体調不良の事が多く、自分の身の回りのこともろくに出来ませんが、今は不思議と頭だけはハッキリしています?
これからもどうぞ宜しくお願いいたします。
取り急ぎ御礼方々御挨拶迄
今できることを今、今日できることを今日、生き生きと元気に過ごすことができたらいいですね。
でも、「明日できることは、今日しない」という余裕の、のんびり、ゆったりした気持ちも必要だと私は思っています。
父は朝元気に出て行き、昼間倒れて、その日の夜に亡くなりました。
母親も闘病18日で急逝しました。
祖母は、夕飯が出来たと呼びかけたところ、布団の中で亡くなっていたそうです。お昼ご飯は普通に食べたそうです。
人生はいつ何があるかわかりませんね……
物心ついて以来のんびり、ゆったりとは正反対の生活を強いられて来ましたのでこれからはのんびりしたいと思います。
小さい幸せを感じる繊細な心があれば、人はきっと強くなれるような気がします。