「あゝ岸壁の母」⑤ 番外編
敗戦時点で海外に在住する日本人は軍人・民間人の総計で660万人以上いたと思われます。
引揚げた日本人は1946年(昭和21)末までに、500万人が帰国したといわれています。
しかし、いろいろな事情があって帰国しない選択をした人もいたが、
その人数や理由については現在も不明です。
これを『残留日本人』と言います。
厚生省によれば、
1971年末時点での軍人・軍属と法人あわせた引揚者の総数は、
6,290,702人と言われています。
日本5大引揚港
引揚港は北の小樽、函館港から、
南は博多、鹿児島港まで約15港に及びます。
浦頭港 長崎県佐世保市 引揚者数 139万6468人
博多港 福岡県福岡市 〃 139万2429人
舞鶴港 京都府舞鶴市 〃 66万4531人
浦賀港 神奈川県横須賀市 〃 56万4625人
仙崎港 山口県長門市 〃 41万3961人
合計 443万2014人
最後に引揚者の人数を申し上げて、私の話は終わります。
厚生労働省のまとめによると、海外から引き揚げた軍人・軍属は310万人、民間人は318万人、合わせて628万人となります。
しかし、いろいろの事情があり、残留日本人の詳細な数や実態については現在も不明である。
終戦までの経緯(まとめ)
ポツダム宣言を受諾した日本は昭和20年(1945)9月2日、降伏文書に調印しました。一般には、この日を第二次世界大戦の正式な終結日とされています。
1945年7月26日 連合国がポツダム宣言を日本に勧告
8月 6日 広島原爆投下
8月 8日 ソ連対日参戦広島に原爆が投下された2日後の1945(昭和20)年8月
8日、中立条約(1941年4月調印 1945年4月5日失効)を結んでいたソ連
が、日本に宣戦を布告した。
日本は米英との和平交渉の仲介役をソ連に打診していたほどで、まったく
の不意打ちに何の対応も取れなかった。
ソ連の参戦は、同年2月に開かれた米英ソ首脳によるヤルタ会談で秘密決
定されており、その見返りに南樺太と千島列島をソ連に帰属させることにな
っていた。
8月 9日 長崎原爆投下
8月10日 午前会議でポツダム宣言を受諾
ポツダム宣言受諾が遅れた理由は、①陸海軍の受諾反対
②受諾を巡る反論が相次いだ。
③無条件降伏を受諾した場合の天皇
の責任扱いについてどのように扱
われるかわからなかった。
等々議論がまとまらないうちに12日が経過し、原爆投下を受け更にその
二日後には長崎にも原爆投下があり、見計らったようにソ連参戦があ
り、日本は受諾を余儀なくされてしまった。
14日 終戦の詔書が閣議決定され、玉音放送のための録音盤が
作成された。
15日 玉音放送 鈴木内閣総辞職
日本はこの日を終戦記念日とした。
9月 2日 東京湾上の米軍艦ミズーリ―号で連合国と日本軍の降
伏文書の調印式が行われる。
世界的にはこの日を第二次世界大戦の終結日とされています。
ソ連参戦
ソ連の参戦が1945年2月に開催された米英ソ首脳によるヤルタ会談で秘密裏に決定されており、その見返りに南樺太と千島列島をソ連に帰属させることになっていた。
どのような経緯があってソ連参戦が認められ、その見返りに南樺太と千島列島をソ連に帰属させることになったのか、知るよしもないが日本は米英との和平交渉の仲介役をソ連に打診していたほどで、まったくの不意打ちに何の対応も取れなかった。
以下、時事ドットコムの『終戦特集~太平洋戦争の歴史』から関連記事を抜粋引用します。
ソ連との国境地帯に配置された日本軍は、
主力を南方戦線に引き抜かれ、戦力は著しく低下していた。
これに対し、ソ連軍は対日戦に約150万人の兵力を動員、
大量の戦車や航空戦力で日本軍を圧倒し、
またたくまに日本の勢力圏だった満州国と朝鮮半島北部を制圧した。
さらに、日本がポツダム宣言を受諾した後に千島列島に侵攻し、
日本側の守備隊と激しい戦闘が繰り広げられた。
同年の9月初めまで続いた日ソ戦では、
ソ連側推定で戦死者はソ連軍が約8200人だったのに対し、
日本軍は約8万人に及んだ。
停戦後に捕虜となった日本の軍人、
軍属のうち57万人以上がシベリアや中央アジア、モンゴルなどの収容所に抑留され、
強制労働を課された。
厳しい飢えと寒さで、抑留者のうち死者は約5万5000人に達した。
中国、朝鮮半島南部、東南アジアなどからの引き揚げが比較的順調に進んだのに比べて、ソ連に抑留された軍人や民間人たちの引き揚げは、容易には進展しませんでした。
引揚事業が終了する13年間を引揚者の世話をし、
「引き揚げの母」と言われた舞鶴市の田端ハナさんの証言。
「子供を持つ親、夫を待つ妻。当時は男も女も子供も年寄りも一緒だった。ひたすら、帰りを待っていた。いせさんもその一人で、ナホトカから船がつくたびに見えていた」。
国の引揚船事業は昭和33年9月引揚が終了。昭和29年9月
現場には一時、新聞、通信社、放送局など75社、1000人を超える報道陣が押しかけ、
激しい報道合戦を展開したと言われています。
京都市舞鶴市平引揚桟橋には、終戦直後から引揚事業の終了する13年間に346回の引揚船が入港し655,501人が帰国した。中には引揚船の中で病気や、栄養失調などでなくなる人もいました。また、出産する人もいました。
京都府舞鶴市にある舞鶴引揚記念館によると、終戦時大陸に残された日本人の内、
約47万2千人がシベリアの収容所で拘留生活を強いられていました。
政府は昭和20年10月7日から舞鶴港は政府指定引揚港のひとつとして、
先の大戦において海外に取り残された660万人以上といわれる日本人の生命線としてその使命を果たしてきたそうです。
浦頭検疫所
上陸した引揚者は、検疫所で問診・検疫を受け荷物や衣類も消毒されました。これは、コレラやチフスなどの伝染病を水際で防ぐためで、多い時は一日で一万九千人も検査された。検疫が済むと、引揚援護局が管理する収容所まで約7キロの山道を歩いた。
余談になりますが、浦頭資料館の敷地内には、浦頭引き上げを経験された田端義男さんの「かえり舟」の歌碑が設置されています。
「岸壁の母」を昭和50年に大ヒットさせ、いせさんを病院で看取った歌手、二葉百合子は「うわ言で新二さんの名前を呼び続けて亡くなられた。いせさんは死ぬ間際まで新二さんを待っていた」という。
彼等は毎年6月、旧満州や旧ソ連軍によって強制抑留されたロシア・ハバロスク、中国などを訪問し、戦友らの墓探しや消息確認を行っていた。
660万人の引揚者が日本全土に設けられた引揚港から、祖国日本に帰ってきた。
艱難辛苦を乗り越えて帰ってきた引揚者には、引揚船にたどり着く前に、
貧困、暴行、強姦、略奪、食糧難、伝染病など、
様々な悲惨な体験を乗り越えての帰国であったのだろう。
一人一人の引揚者には、語りつくせぬ悲惨な体験があった。
岸壁に立つ「端野いせ」と同じように、帰らぬ父や夫や息子を待ち続けた、
多くの「端野いせ」がいたことを忘れてはいけない。
そしてまた夢にまで見た祖国日本に帰ることができずに、
消えていったたくさんの人々がいたことを、
今も異国の土に眠る人々のいることを私たちは忘れてはいけない。
(終り)
(語り継ぐ戦争の証言№43) (2025.03.07)
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