石巻・大川小学校を襲った津波の悲劇(1)
全校児童108人のうち7割が犠牲になり、教員11人中10人が犠牲。
どうしてこんなことに……。
東北最大の大河北上川は、ゆったりと川幅いっぱいに流れていた。
岸辺に残っている津波の爪跡や瓦礫などが痛々しく目に飛び込んでくる。
太平洋に北上川が注ぐ追波(おっぱ)湾の河口から4キロ遡った北上川右岸・釜谷地区に、
大川小学校はあった。
3月11日午後2時46分、宮城県牡鹿半島沖130キロの海底で発生した巨大地震は、
観測史上初のマグニチュード9.0、
巨大なエネルギーをともない、濁流となって、
全てを破壊し、街を呑み込み、
かけがえのない命を奪った。
地震発生時、児童たちの多くは下校準備をしていた。
全員が通学用のヘルメットを着用し、校庭に避難した。
地震発生の3分後の2時49分、大津波警報が発令。
しかし、この警報を危機管理の情報として捉え、
避難誘導に役立てた教員はいなかったようだ。
泣き叫ぶ児童、恐怖と緊張のあまり嘔吐する児童。
校長は午後から年次有給休暇を取り不在であった。
最高責任者の欠けた組織で、
不安材料ばかりがあげられ、決断の時間が先延ばしにされたのだろう。
校舎は割れたガラスが散乱し、続発する余震で倒壊の恐れがあり、
学校南側には裏山があったが、急斜面で地震による倒木の恐れが考えられた。
結局最後に選ばれた二次避難の場所は、
学校から200メートル西側にある新北上大橋たもとと決定された。
ここは周囲の堤防から少しだけ高くなっていたためと思われる。
校長のいない学校集団が、校庭に避難した児童たちを、
新北上大橋に向けて移動開始したのが、午後3時20分過ぎと思われる。
実に地震発生からおおよそ、40分が経過していた。
移動開始した児童たち。
その直後巨大津波は、北上川をさかのぼり、堤防を破壊し、
「ゴーッ」というすさまじい音とともに、児童の列を先頭から呑み込んでいった。
津波は、二階建ての校舎を呑み込み、
裏山のふもとから約10メートルも駆け上がったという。
参考資料:朝日新聞 河北新報 読売新聞 毎日新聞
(つづく)
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