真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号 ②特殊潜航艇・甲標的
航空母艦の艦載機による、奇襲攻撃は前述のように華々しい戦果を挙げた。
しかし、この手記の酒巻和男が乗った「特殊潜航艇・甲標的」のことはあまり知られていない。
簡単に言ってしまえば、甲標的は、二人乗り(甲型)の小さな潜水艇です。
全長24㍍、全高3.4㍍、速力は19㌩(毎時35㌖)で、
航続力は最大速力で潜行した場合50分程度しか航行できませんでした。
魚雷2本を搭載しています。
作戦終了後に母艦により収容される計画となっていたが、
実際の収容は困難であり、生存率の低い兵器でした。
華々しい戦果の陰に隠れて、
たった5隻の潜航艇に10人の兵士が乗った2人乗りの「特殊潜航艇・甲標的」の戦果は皆無だったが、
当時は戦果についての発表はなかった。
戦死した9人は太平洋戦争最初の戦死者として華々しく報道され、
「9人の軍神」として、国民の戦意高揚に利用された。
(真珠湾攻撃は1941(昭和16)年12月8日ですから、報道機関に発表されたのは、
3カ月後の発表ということになります)
1942(昭和17)年3月7日付の東京日日新聞(現毎日新聞)朝刊を見てみよう。
『軍神 真珠湾強襲・特別攻撃隊の九将士』という活字が躍っいます。
また、「不滅の偉勲」「壮烈無比の攻撃」などの活字が躍っています。
戦死した九人の写真が掲載されているが、
捕虜となった酒巻和男さんについてはまったく触れられてなかった。
戦歴から抹殺されていたのです。
戦死した9人は軍神としてたたえられ、
1人だけ生き残り捕虜第一号となった酒巻和男の存在は秘匿された。
さらに、大東亜戦争記録画報(前篇) 1943年6月20発行からの関連記事を見てみよう。
九軍神特別攻撃隊の大戦果
ハワイ真珠湾に潜行突撃したわが特別攻撃隊の精神は果たして至高至純にして神そのものの如く忠勇無比
なるその義烈はまさに鬼神を哭かしむる、征ける九勇士はみな還らず、すべて真珠の玉と砕けたのである。
激闘の瞬間身を死地に投ずるは安いが、このハワイ九軍神の如く数カ月前より一旦緩急ある場合を期し自ら
死を着想し死を工作し死の訓練を重ねて静かに、尽忠報国の秋を待てるは千古に比を見ざる崇高なる精神で
ある。
「九軍神」の表現はあるが、
5隻の潜航艇に10人の兵士が乗った2人乗りの「特殊潜航艇・甲標的」で出撃した特別攻撃隊なのに、
「征ける九勇士はみな還らず」とすれば、
「残る一人は生存しているのか」という素朴な疑問が国民のだれ一人も思い浮かばず、
プロパガンダの戦果報道に酔いしれていた。
捏造された写真には九人の軍神がハワイ・オアフ島を囲むように配置されている。
酒巻和男の姿はない。
ハワイ沖まで潜水艦で運ばれた2人乗りの潜航艇5隻の一つに乗り込み、米軍艦を魚雷で攻撃するために湾内に向かった。しかし、酒巻和男が乗る潜航艇はジャイロコンパス(羅針儀)の故障で思うように航行できず、敵の攻撃を受けて座礁し、浜辺に打ち上げられ、米軍につかまった。
『真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号』の冒頭は次のように始まります。
蒸し暑い特潜の中から母艦の甲板へ降り立った。冷え冷えとした夜気を含んだ南海の潮風が容赦なく私の顔を打ち付けてくる。
憑かれたようにハワイの島影を求めた。薄暗い星明りの下に、ぼんやりと霞むオアフ島が現れて来る。その霞の奥からかすかに、昼間聞いたホノルル放送局の耳慣れないジャズ音楽が響いてくるようだ。言い知れない不気味さが、敵地に侵入した私を不思議な緊張感の中に追い込め、しばらくはただ茫然と仁王立ちしていた。
(つづく)
(語り継ぐ戦争の証言№35) (2023.12.23記)
今年もあとわずか
いつも有難う御座います^_^
🎍良いお年をお迎え下さい🎍
有難うございました。
「めでたさも中ぐらいなりおらが春」と歌ったのは小林一茶だったか。のんびりとした元旦を妻と二人で過ごすことができました。
明日は、孫たち夫妻が訪れ、にぎやかな一日になりそうな予感のするよるです。
どうぞことしもよろしくお願いします。