高速道路を挟んで、西側の南関町の中心部に近いところに、国の史跡に指定されている豊前街道「南関御茶屋跡」がある。
小さな標識なので、見落とさないようにしないとUターンして戻って探すはめになる。
昔の街道沿いなので道は極めて狭い。

(御茶屋跡入口)
左前方の建物が2016年に、国の事業として修復された御茶屋の建物。
右は個人所有であるが、立地位置・建物の形状から歴史的価値があると思われるが未調査。

(修復後の御茶屋)
修復前の写真も展示されているが、あと一歩遅れると修復不能というギリギリの時期だったことが窺える。
南関御茶屋は嘉永5年(1852年)に藩主(細川)が参勤交代や領内巡視の際に休憩・宿泊してたもので、担当者の説明によると薩摩藩も参勤交代時の休憩所として使っていたとか。

(茶屋の居間から大津山を望む)
入館料は大人200円で、抹茶を頂きながら東を望めば、南関富士の別名のある大津山が遠望でき柱や梁が額縁のようで、独特の雰囲気を醸し出している。
200円で殿様気分になれ、御茶まで頂けるとはまさに気分は最高。
説明などは教育委員会のOB等、地域の歴史などに詳しい方々がボランティアで交代勤務している様子。
直ぐ北側に位置する「鷹の原城」跡を案内して説明して頂けることになった。

(鷹の原城址)
鷹の原城趾は、古文書等はあったものの実際に発掘調査まで行われたのは比較的最近のこと。
熊本城の支城として北に備えるため、加藤清正が築城を命じたもの。
熊本県の南の佐敷城や東の内牧城などとともに、幾つかあった支城の一つである。
標高100m程度の小高い場所に築かれた平山城で、山城だったすぐ東側の大津山城とは異なる。
徳川時代の一国一城令によって、廃城となり高く積まれていた石垣もすべて堀の中に崩され土で覆われてしまった。
近年の発掘調査で、往時の様子が垣間見られるようになってきた。
本丸の付近には、西南戦争時の「官軍墓地」もある。

(大津山阿蘇神社)
こうして見ると、大津山城や鷹の原城、この他にも幾つかの城址がある。
阿蘇神社があるということは、古くは阿蘇氏の勢力が及んでいることである。
南関は街道交通の要衝であることから、古代から近代化の時代まで歴史の息づかいが聞こえるような場所である。
この他、詩人の北原白秋の母親は、この南関生まれであり白秋も母親の実家で生まれている。
子供の頃からしばしば母親の生家や親類を訪れていて、福岡の柳川と共に第二の故郷と白秋が言う南関の風土が、彼の作品に影響を及ぼしたであろうことは容易に推測される。
御茶屋は、廃藩置県のあと廃止され民間の手にわたり、本当の御茶屋としてお客をもてなす場所として大切に使用されてきたため、修復が可能な程度の傷み具合で済んだということらしい。
「手延べ素麺」や「南関揚げ」などの特産品や、近年クローズアップされてきた竹を利用した産業などについては、次に訪れるときの宿題に残して置くことにする。
「秋風が出番ですよと呼びに来る」

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昔の街道沿いなので道は極めて狭い。

(御茶屋跡入口)
左前方の建物が2016年に、国の事業として修復された御茶屋の建物。
右は個人所有であるが、立地位置・建物の形状から歴史的価値があると思われるが未調査。

(修復後の御茶屋)
修復前の写真も展示されているが、あと一歩遅れると修復不能というギリギリの時期だったことが窺える。
南関御茶屋は嘉永5年(1852年)に藩主(細川)が参勤交代や領内巡視の際に休憩・宿泊してたもので、担当者の説明によると薩摩藩も参勤交代時の休憩所として使っていたとか。

(茶屋の居間から大津山を望む)
入館料は大人200円で、抹茶を頂きながら東を望めば、南関富士の別名のある大津山が遠望でき柱や梁が額縁のようで、独特の雰囲気を醸し出している。
200円で殿様気分になれ、御茶まで頂けるとはまさに気分は最高。
説明などは教育委員会のOB等、地域の歴史などに詳しい方々がボランティアで交代勤務している様子。
直ぐ北側に位置する「鷹の原城」跡を案内して説明して頂けることになった。

(鷹の原城址)
鷹の原城趾は、古文書等はあったものの実際に発掘調査まで行われたのは比較的最近のこと。
熊本城の支城として北に備えるため、加藤清正が築城を命じたもの。
熊本県の南の佐敷城や東の内牧城などとともに、幾つかあった支城の一つである。
標高100m程度の小高い場所に築かれた平山城で、山城だったすぐ東側の大津山城とは異なる。
徳川時代の一国一城令によって、廃城となり高く積まれていた石垣もすべて堀の中に崩され土で覆われてしまった。
近年の発掘調査で、往時の様子が垣間見られるようになってきた。
本丸の付近には、西南戦争時の「官軍墓地」もある。

(大津山阿蘇神社)
こうして見ると、大津山城や鷹の原城、この他にも幾つかの城址がある。
阿蘇神社があるということは、古くは阿蘇氏の勢力が及んでいることである。
南関は街道交通の要衝であることから、古代から近代化の時代まで歴史の息づかいが聞こえるような場所である。
この他、詩人の北原白秋の母親は、この南関生まれであり白秋も母親の実家で生まれている。
子供の頃からしばしば母親の生家や親類を訪れていて、福岡の柳川と共に第二の故郷と白秋が言う南関の風土が、彼の作品に影響を及ぼしたであろうことは容易に推測される。
御茶屋は、廃藩置県のあと廃止され民間の手にわたり、本当の御茶屋としてお客をもてなす場所として大切に使用されてきたため、修復が可能な程度の傷み具合で済んだということらしい。
「手延べ素麺」や「南関揚げ」などの特産品や、近年クローズアップされてきた竹を利用した産業などについては、次に訪れるときの宿題に残して置くことにする。
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