人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神に向き合う

2024-05-06 09:50:16 | 意識、照明
「そこには、あるものがそこにいるという意識ばかりでなく、その意識の中心にある幸福感と溶け合って、それが何か名状しがたい善であるという驚きの意識もあった」
「神は、目には見えはしなかったけれども、現前したもうた。神は私の五感のどれ一つにも触れはしなかったが、しかし私の意識は神を知覚した」
(ウィリアム.ジェイムス「宗教的経験の諸相」/岩波文庫他)

私はここで何度となく、“神に意識を向ける“という言い方をして来ました。
いかにも、神という対象を思い描いて、それに意識を向けるというようなイメージを与えてしまうように...
しかし、それは本当は正確な表現では無く、ただ慣用的な言い方が思いつかないので、分かりやすくそう言ったまでなのです。
いや、対象的に向けるというのは、思いの世界のことなのであって、意識の世界には無いと言ってもいいのです。
この場合の“意識を向ける“という意味合いは、すでに意識的に知覚されているもの、ハタライているものを意識するというようなことなのです。
対象的に向けるというよりも、“向き合う“という方がいくらか伝わるものがあるでしょうか?
合う、すでにあるものに合わさるという...
これは、そういう原体験、原態に基づいていると言っていいでしょう。
つまり、最初から愛、平安、リアリティというものは意識下に覚えられていて、意識的になることによって、表層に喚起されるということなのです。それを“神が現れ臨む“、とこう呼んでいる訳ですが...
米国の哲学者、心理学者ウィリアム.ジェイムスは、その帯びただしい数の体験報告から成る、宗教体験、回心体験についての名著の中で、そうした意識の状態は、生まれつきのものだと言います。全くそうですね、私も原態と言っているくらいですから!...
人は、宗教と関わり、ある教えに触れ、ただ観念的にそれを理解し、礼拝行事などで、対象的に神を礼拝するだけで、あの神的な愛、平安、リアリティに与ることなど出来るでしょうか?
それは、正に意識下に息づいているものが、呼び覚まされることに拠るのでしょう。
それがどこで発現されるかは分からないのです。その教えに触れ、礼拝と関わることにおいても無いとは限らないし、何度そうしたことを重ねてもそうなる保証も無いと言えます。
ただ、自分の思いを超えて、超えたものがハタラくことがあるだけでしょう。
私は、自分からは神的なものとつながる道は開かれない!...それは不可逆なものだと言います。
それは、あくまでも思い、為そうとする自分“のみ“からは...ということなのであり、原初的な自己には当てはまらないでしょう。
“神と共にある、現臨にあることは、幸福なことなんだ!“...私には、母の訓とうというものはあったけれど、最初からそのことは朧気ながらも覚えられていたのです。
だから、神を求め、神の道を歩むことは、私の内的必然からだった、としか言いようがありません。
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中動態

2024-04-15 09:38:14 | 意識、照明
「“歩いたのは自分です。それは歩かしめるような力が加わったからなんです“、という時に、それが聖霊経験です」(手島郁郎)

手島先生の「ロマ書講話下巻」(手島郁郎文庫)を読んでいたら、言語形態の一つで中動態というのが出て来ました。
能動態を表す自動詞でも他動詞でもない、そういうものがこのロマ書の原語のギリシア語にあるのだそうです。
私はこれまでどれだけ、例えば“意識を向ける、いや向けられる...“などとまどろっこしい言い方をしてきたことか!
このブログの基調部分は、ほとんど中動態で表されるようなことと言っても過言ではありません。(本当は微妙な、含みをもった表現を伝え得る日本語こそ、この言語形態が生きてくるように思えるのですが...)
よく考えてみたら、自分だけで、又自分以外のものだけで、人間の在り様は成り立たないことは自明に分かることではありませんか?
これは、人間存在というものからして、それを超えたもの無しには成り立たないことに照応しているということでしょう。
一つ言えることは、これまで我々の表層的意識は、能動的な方に傾き過ぎているということです。言い換えれば、その根底にある、我々をして在らしめる、為さしめる部分に意識が向けられてこなかったのです。
つまり、人間の在り様の根本は、意識の在り様そのままなのです。
考えるか、行動するしか無いというのは、根本的におかしいですよ!
幸福を得ようと考えて、何かの行動に駆り立てられる...それで幸福を得られるかどうかは分からないのに!...
意識的になっているだけで幸福に与ってしまったらどうするのか?...この上、何をセイって言うのか?
え?...ちょっと待てよ!、駆り立てられるのか?...何に?
神か?...いいや、“行動せよ!、為さねば成らぬ!“、と命令する別の神だろう?...
このように意識の在り様は、中動態で言い表すのに適しているはずなのですが...近代ヨーロッパの言語形態からは失われてしまったのでした。
だけど、現代の日本語には、中動態という言語形態は無いけれど、自力でも、他力でもないものを言い表せるものはあるでしょう。
今は...
“幸福です!...“


コメント (2)
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照らされるままの真実

2024-04-01 09:16:43 | 意識、照明
ありのままの自分を受け入れる...それが如何にダメで、みっともない自分だろうと!...
今はそうでないのに正しく、進んだ境地になろうと、人にも見せようとする自分は偽物なんだ!
ありのままの自分こそは本当の自分...

な~んてことをいつも言っている訳ですが、そんなダメで悪い自分が何で本当の自分なんて言えるのか?、って思う人も居られるでしょう?
ここで、本当に言いたいことはそういうことじゃないのです!
あなたがダメだろうと、おバカだろうと、正しかろうと、天才だろうとホントはどうでもいいのです。思いを超えたハタラキ、光を受ける...ハタラかれるままに、照らされるままに...こういうことなのです!
本当のことを言えば、本当もウソも真我も偽我も無いのです!...は?
すべてを照らし、映し出し、見透かすものの前ではそれを認め、受け入れる他無いじゃありませんか?、それが真実なのだから!
だから、その神的な照明に映し出された自分が本当の自分なんだ、とそう言っているのです。
真我になるんだという、修行努力なんかして...それが悪いって言うつもりはないですが、もう、これがズレた在り方と言わねばなりません。
私は、照明を受ける(これは現臨にあると言っても同じですが)、そういうもの無しに真我の実現などあり得ない、と言い切ってしまいます!
単純にその自分を超えたもの無しに自分は存在、実存出来ないのですから!
それにある、ということは、その自分の本来性に帰ることと言ってもいいでしょう。
本来からあるものが本当の自分なんだ!...
だから、そこから離れたままの思い、為そうとする自分からはそうなれないのです。
そういう自分は、かくあらねばと思い描いた自分になろうとする...私は正しいのですよ、と。内心は、きっとそうじゃないと思っているから、そう見せようとするんでしょ!
そして、ありのままの自分の本性には目を向けられない...自分の本性、それを映し出す神的なものもホントは恐ろしくてならないのでしょ!
だからだから、ダメでも悪くてもありのままでいい!...照らされるまま、映し出されるままであることが、どんなにラクーで、幸福で、安らぐことであることか!
先のことは、こういうありのままの人間の心の動きのことを言っているまでなのです。
(まあ、天然な人間というのは、それか、それに近いってことは言えるかもしれません。バカなのか、天才なのか分からない!)

こうしてエラそうなこと言ってる私はというと、勿論真我に達しているのです!、なんて言える訳無い!
ただ、受けたまま、感じたままを書いているだけです!
急にバカ陽気になったりするものだから!...


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神と自分は分けることが出来ない!

2024-03-23 09:18:59 | 意識、照明
五木寛之先生の「他力」などの本を読んでいて、“実にその通りだなあ“、と共感させられることが多いのです。
「自分を信じ、自分を愛することから始めるしかないのではないか」
「今の自分はみっともないかもしれないけれど、それをそのまま肯定し、受け入れてみてはどうでしょうか」
然り。ありのままの自分を受け入れる...しかし、人間の自我心は、それが出来ないというのも事実でしょう。
今のダメな、悪い自分を受け入れられないから、正しい、進んだ自分になろうと、そういう境地に到達しようとする...そして、常にそういう自分を周囲にアッピールし続けなければならないのです。つまり自分自身を認めるのでなく、人に認めてもらおうとする訳ですね。
だから、本当は、そういう思いを超えたもの無しにはそうならないとも言えるのです。
これは、自分を信じ、愛し、受け入れることは、神的なものを信じ、愛し、受け入れることと一つということでしょう。
しかし、本当にホントーのことは、信じ、受け入れるも何も、私が“照明“と呼んでいる、常にそういう自分の思いを超えた光に照らされるままに、映し出されるままになっているのです。
だから、ホントはそれを受け入れるしかありません。
これを何かの裁きみたいなものと捉えるか、本当の救いと捉えるかで人生は、天と地ほどの開きがあるように感じられてしまうでしょう。
救い?...だってそうでしょう?...これまでどれだけ、世間の目、人の目を気にしながら、戦々恐々とした気持ちで生きて来たのか、どれだけ自分を周囲に取り繕うことばかりして来たというのでしょうか?
ありのままの“真の“自分で無しに、偽りの自分でいなきゃならなかったのです。
こういうことから、今も毎日のように、自ら命を絶つ人は後を絶たないのです。もうそういう神経症のような精神状態から解放されるのですよ!
神の目は常に光っている、あなたはすべて照らされ、見透かされている!...それ自体あなたに何のお咎めが、苦しみがもたらされると言うのでしょうか?
死んで、地獄に落とされるとでも!...地獄というものは、神を、自分を受け入れない自我心が創造(想像)したものではありませんか?
現実に無いものを思い描いてないで、現存、現臨するものを受け入れてみられよ!...そこにあるのは、生かされているという実感、愛、安らぎといったものばかりではないか?
これが、許されていることでなくて何であろうか?!
これを裁きと取ってしまうあなたは、神を信じ、愛し、受け入れ、そして許してなどいないのです!
神の目はあなたのすべてを明るみに出す...あなたのこれまでの罪を?
こういう神のイメージこそは、世間というアダなる神が作り出したものだということを知らなければなりません。
本当のことを知りたければ、そういう刷り込み、予見からで無しに真っすぐに神を、自分を受け入れてみたらいいでしょう。
これは、真我に目覚めることと同じことです!
神のことも自分のことも分けることなど出来ないのだから!...




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意識が顕わになるとは?

2024-03-10 10:18:30 | 意識、照明
私は今でこそ、“意識次元が開かれる“とか偉そうなこと言っていますが、初めて自分がそんなことになった時は、言葉が見つからず、どう表現していいか分からなかったのです。
思考次元が超えられたそこに意識次元がある、ということなのですが、慣用されていなかったためか、昔の人はあまり意識云々という表現はしていません。
五井先生でもそうですね。“思いというのは、消えてゆく姿だ“、と言われますが、消えたそこに顕わになるのが意識の領域だ、ということは伝わるのです。
又宗教の本筋は、本心を開発することにあるのだ、とよく言われていました。意識次元こそは本心の鎮まるところなのですよ!...
しかしながらそれは、心とか精神など思考次元とあまり区別されることの無い曖昧な括りで語られ、そして多くは本来超えられているものである、意志想念と混同して使われていたようです。
今日のように、意識のことが一般概念として定着するようになったのは、何と言ってもユングなどの心理学、取り分けその後進である、トランスパーソナル心理学に負うところが大きいと言っていいでしょう。
つまりは、ようやく1970年代の終わりくらいからということなんだ!...かくも人間の在り方の根本にあるものが、如何に蔑ろにされてきたかが分かります。
日本ではも少し後で、ちょうど私がケン.ウィルバーの「意識のスペクトル」(春秋社刊)という本を読んで、“ああ、イエスもブッダもラマナ.マハルシもベルジャーエフもこれにアクセスし、これを究明しようとしていたんだなあ“、との思いがもたげていた85年の春頃から、頻繁に意識云々というワードを見聞きするようになりました。
要するに、言葉の上で私の意識次元が開かれたのは、その頃だったということなのです。
捉えどころの無い(というか捉えようとしている私自身を基底しているものだから当たり前のことなのですが”)、意識世界にもある輪郭が与えられるようになったのです。
言い方を換えれば、如何にも心理学的な言い回しで、意識の表層と深層がつながるようになった、ということなのでしょうが...私には、心理学の発達ということだけでは説明出来ないものがそこに働いているように感じてなりません。
それは、これまで隠されていた意識次元の方が表に顕わになってきたということ...本心の、神の扉が開き始めた、ということなのではあるまいか?
私に初めて、言葉の上でなくその少し前、実体験として、目の当たりに感じたことは正にそういうことだったのです。
ただ、それは全く形も方向性ももたないカオスに包まれていて、いつ精神のバランスが崩れるか分からない危機的なものと隣り合わせのものだったのです。
このように、実体験の伴わない言葉、概念理解だけでは、抽象観念に留まってしまいますが、形も方向性も無かったら...そう、こうして書き表すことなど出来ないのです!
顕わになるから表せる次第な訳で!...
今日、両方相まって、意識次元が開かれる、その時を迎えているのをヒシヒシと感じずにおれません。


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