人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

令和

2019-04-01 17:20:06 | 日本的霊性
新元号は「令和」。
平成の時は、寝ぼけた状態で改元のニュースを聞いたものでしたが、今度はその発表の模様を固唾を飲んで見入ってしまいました。
で、いよいよその瞬間...思わず心臓が止まるかと思いました。
「新しい元号は、"れい"...」なぬっi
私の予想は、「黎明(れいめい)」だったからです。コテン...日本の古典「万葉集」からの引用とのこと。
でも、すぐ別の意味で鳥肌が立ってしまいました。
これは、実にすばらしいじゃないかi
この「和」の文字は、私などでもその年号に馴染みのある「昭和」とダブるので、避けられるだろうと思っていました。
しかし、日本の民はヤッパリ和を重んじ、平和であって欲しいという思いがそこに表されているのではないでしょうか?
そして、漢籍からでなく、初めて我が国の典籍から選ばれたのです。
これは、他の国、情勢になびくのでなく、和をもって尊しとする古来より伝えられている、日本国としての在り方を示そう、という意図も感じられます。
それにしても、ここに「令」の文字が選ばれようとは...
総理の説明は実にヤンワリとしたものでしたが...
これまで、こんな強い、律するような響きの言葉が使われたことなどあったでしょうか?
和やかなばかりではない、それは言い付け、ミコトノリなのであるi
私など襟首を正すどころか、首が何だか引きつってきて、全身が震えてきそうです。
しかし、国のトップがこういう姿勢を表したら、歪み、摩擦も起きかねないでしょう。
一体何ものが令するのだろうか?
それは見えざる、大いなる意志か?
この国には形の上ですが、それを表すものが伝承されているのです。
新しい時代は、"見えざる令"によって開かれることが思起されずにおれません。
平和世界を成就すべく...それは見えざるものと見えるもの、神的なものと人なるものとの協調によって成されるでしょう。
ミコトノリというのは、上からの一方的な通達であろうハズがありません。上も下も相和し、一致されるものでしょう。
こういうことを言うと、又ぞろ"そわ軍国主義の復活かi"と騒ぎ立てる族も現れるかもしれません。
天皇、日本国の純粋な在り方から、片寄った思想感情が切り離されることが、世界平和の第一歩となるのではないでしょうか?
同時に国の象徴も隠れた、その本来の在り方が表に現れて、物を言い始めてくる...それは一人一人の民意と連繋したものとなる...
どういう理由でこの言葉が選ばれたかは分かりませんが、見えざる神意がハタライているような気がしてなりません。
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新年におろがみて

2018-01-02 10:30:50 | 日本的霊性
新年明けましておめでとうございます。
紺碧の空模様に恵まれた元旦でしたが...
私は朝から"フン"だりけったりでして...到底恥ずかしくてくわしい話など出来ませぬi
アレを我慢することが出来なくて、理性も何もかもが吹っ飛んでしまい、ついにゴール寸前で事が及んでしまったのでしたi
あの、真面目そうな、このところスッカリブログのアップの頻度が落ちていて、今年からボチボチ増やしていきそうな、悟り系人気ブロガーさん(このヒトは既にひと頃その界隈で連日のように筆、いや指を奮っていたのです)じゃないけど、"ウンコクサイ"ことになってしまったのですi
人間年取るとアチコチの筋肉は緩むは、堪え性は失せてくるわでメンドクサイ事が多くなるけど...ああ、情けなや...

これと言うのも、初詣で近くの神社で長蛇の列にそれを我慢して並んだためです。
お腹の辺りがゴロゴロとアヤシイと思ったら諦めるのが肝心です。
それでも私はそういうクサイ脱線はあったものの、めげずに毎年恒例の氷川神社三ヶ所を廻りました。
悟り系スピなどでは、神社参拝など見向きもしない人も居るでしょうが、私はする時はします。
それはまあ、儀礼の一環ではありますが、この"表側"の世界では、意を体で表すという、形に乗っ取った礼拝の意義もあるでしょう。
これは神道では顕斎に当たるのですが、夜は形なき礼拝、幽斎みたいなことをしています。
最近やたらとクエーカー教徒じゃないけど、ブルブル上下左右に"震え"が発現します。(神道では"ミタマフリ"と言います)
きっと、知らず知らずに心身にストレスが溜まっていたのでしょう。
公的な場では、こんなことは出来ないですが、私はいつの頃からかパンパンと形式的な参拝をしていても、あのジンジンとしてくる内的な感覚が伴ってくるのがフツーになってしまいました。
形ある礼拝では、神は自己の外なる対象としておろがむということをする訳ですが、そういう象徴的な思念に意図的に乗っ取るということと、意識の有り様がその客体の方に結び付き、とらわれてしまうということとは全く意味合いが違うことです。
(後者の場合は内なる生命の発露を閉ざすことにつながります)
対象としての神と内なるものとは別々のものにはならないのです。
そして私は、特に昨年神的なものが他者として意識せられた時に、よりそのものと一体のものとして実感されることを示されました。
逆説的ですが、この一体感は例えばこの思われた私が、スピ系で広められているように"神はわが内にお在す、私は神と一つ"と信じ、思い込もうとすることで断ち切られます。
よく考えてみれば、それは思いを超えてハタラクものを、思いの中で思いをより強めていくようなことだからです。
まず、我々は"思いの中に居る"ということに気付かなければ何一つ始まってこないのです。
そして、"始めに神、ロゴスありき"、 生ける命を召喚せねば話になりません。
神道の祭礼には、そうした内なる意識の在り方を象徴的に表しているのです。
思いから離れるには、それが向けられるサムシングが必要なのです。
その神的ハタラキというものは、こちらがそうしようとする意志より先に、向けようとする先に、向かわしめられてしまうものなのです。
この根源的力の前には、"トイレを探そうとフン闘する意志"などあまりにも間に合わず、無力です。
神を他者としておろがむ心は、我々の留まることを知らない蒙昧なる思い上がりの抑制に通じているのです。
これは倫理の問題でなく、神人の親子の如く一体たらんとする"かんながらの道"の手振りそのものと言えるでしょう。
("ウンコクサイ"さんの兄貴分のAさんも最近はノンデュアリティが行き詰まったのか転向した?ようです)

かんながらたまちはへませ





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隠れた神

2017-02-11 00:01:27 | 日本的霊性
古来より我が国に伝わる神道は、ノンデュアリティだという観方があります。
縄文人の心性もそれに根ざしていたのだ、とか…ホンマでっか?
じゃ、何で神社で神を祀ったり、拝んだりするの?…何で数えきれないくらい沢山の神サマが存在するの?
縄文時代には、こういう事とは少し趣の異なる信仰形態が有り、縄文人の意識構造も我々とはかなり違っていたのかもしれません。
ホントのところは縄文人に聞かなけりゃ分からないでしょうが…
私は今まで”神道とはこういうものだ…”という合点のいく言辞というものに接したことがありません。
というより神道には、一神教だとか多神教、汎神教、非二元、二元…どんな括り方も出来得ないものだという事を強く感じさせられます。
ある観方からすれば、それ自体あらゆるものを包み容れたホールネス(ワンネスとはちと違うニュアンス)なものを感じさせます。
だが、その各位相に目を向ければ、実に相対的なものが入り混じり、混沌、俗信、迷信、お伊勢さんも神道、怪しげな拝み屋さんも神道…何でもありのイイカゲンさが知らされます。まるで世界の縮図のようですね。
それでいて、これまでの歴史で宗教間の争いというものがほとんど無かった、というところがこの国の不思議サなのです。
この要因として、我々の心象にはずっと見えざる一者というものが根付いているという事が思わされます。
この一者は本来名付けられないものなのですが、古事記で天之御中主(アメノミナカヌシ)として出ている神がそれに想定されます。
この神の次元には始まりも終わりも無く…隠り身におわす…根源神というか、決して表に顕れないのです。
この神が仮現して、世に顕れる段階を広くアマテラス大神として表したり、出口王仁三郎師などは、国常立之尊(クニトコタチノミコト)として表したのでしょう。
日本神話はこの無始無終の根源的一なるものからイザナギ、イザナミ…と分かれていく様を天地の創造に見立てて展開し、生成流転の妙を伝えているのです。
分かれる、といってもそれは単純な分離でなく、新たな創造、産み成しです。産むという…この霊妙なるハタラキを産霊(ムスヒ)といいます。
ここにはどんなに千変万化し、際限なく枝分かれしようとも、根源的霊とつながっている、というヒビキが伝わってきます。
そして、そこには見た目は相対し、分離したように見えても、その多様世界を産み成したムスヒのハタラキは、ある節には再び各々を結び合わせる方向にハタラク、という思念も隠されているのです。つまり、ムスヒとはムスビにつながるのです。
古来から伝わる言葉にはこのように実に両義、多義に解せるものが多いのです。
命(ミコト)とは他からの、上からの命でもあり、それは自己本来の命でもある。使命、天命とはそういうものでしょう。
こうしたことからも、物事は単純に別々のものとして切り離すことの出来ない、相即性というものが隠れていることが示されているのでしょう。
見たままの表れた世界(うつしよ)、見えない隠れた世界(かくりよ)…分かれている、異なっているようで、それは二重写しのように重合されているのです。
一元、二元…どっちかが真実で、どっちかが幻想なのではないのです。どっちかに偏ることが、幻想なのです!…個的に分離させているのもハタラキによるものだし、ハタラキによらずば、再び一つにはならないでしょう。そこにはどんな”さかしら”も要りません。カムナガラです。

”神道はノンデュアリティ”という観方と同じように、現実とそぐわない観方に”神道は八百万の神への信仰”というものが有ります。
神社でお参りする崇敬者で「私は八百万の神を信じてます」なんて人居るんですか? 彼らはいちいちこの神社には何の神が祀られているか、などに心を留めているのでしょうか? 古代史マニアならいざ知らず…
如何なる祭神だろうと、如何に多様に分かれていようと、そこには隠れた一なる神への思念があるのではないでしょうか? 分かれとしてのその神は根源的な神とつながっている…そして又肉身をもって表れている自己と本と末の関係で一連につながっている、という思念が知らず知らず伝わっているのではないでしょうか?
我が国の寛容な精神とは、このような心性によって育まれてきたのでしょう。
神は顕現してくる、という側面もあるが、根源的な一者、神は身を隠したもうことによって、一神教に見られる相克がもたらされることが無かったのでしょう。
真のノンデュアリティはずっと隠れていて、見る事も、表すことも出来ないものなのです…。





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人類の象徴

2016-09-20 19:27:25 | 日本的霊性
「日の光り今も昔も変わらねど 大内山にかかる黒雲」
「霊幸ふ神の心を高山の 雲霧分けて照らせたきもの」
「連綿と天津日嗣の末ながく 動かざる世をなお祈るかな」
            (出口王仁三郎・瑞の神歌)

その日は真冬だというのに、初夏を思わせるようなポカポカ陽気でした。
「こうしては居られない!」と、じっとしていられないような衝動を覚えて、朝起きるなり気の赴くままに向かったのは、京都御所でした。(当時は関西在住)
1989年一月八日…平成時代の幕開けとなったその日のことです。
昭和天皇の崩御、新しい平成天皇の誕生…この事がそんなに唐突に私の中に眠っていたあるものを呼び覚ましたのでしょうか?
なんでそうなってしまったのか分からない…理屈無しにある歓喜が込み上げてくるのを抑えられなかったのです。
その時思い知らされたことは、私はこの国に生まれてこの国の事が全く知らなかった、ということなのでした。
久しく鳴りを潜めていた、私の日本的霊性のある脈筋に再び火が付きました。
巷では、この自制に合わせたかのように、戦争責任などの天皇問題についての喧々諤々の議論が繰り広げられていました。
あの日の京都御所の周辺がそうだったように、御宮にはいつも右だの左だのの喧しいイデオローグたちが取り巻いています。
天皇を利用して我が国を軍国主義に導いた時の権力者たちはとうに消え失せました。
誰が誰に責任を押し付けようとしているのか…
天皇はいつも天皇であるだけであるにも関わらず…
天孫族は外国から渡ってきた…元からの一系じゃないらしい…真実のことなど知る由も無いが、あるいはそうなのかもしれません。
だが…中途で系統が入れ替わったりしようと、形では謀略、侵略のようなことが行われていようと、絶えることなく日嗣(霊を継ぐ)の継承がなされていること…これが万世一系という事ではないでしょうか?
天皇とは国民の象徴である、と言います。
随分民主主義的な響きがありますが、私はそれでも畏敬を覚えずにいられません。
この象徴というものの裏に隠されているものに思いを致せば…
人は皆神の末裔であることの象徴…象徴とは型どり…型が有るということは、それが表している実相が有るという事…それと相即している連繋というものが有るということ…これが国民なるものの内に秘されているということでしょう。
それは国民ばかりか普遍的人類の象徴ではないでしょうか?
神の裔、神の型どりであることには、神武以前の原日本王朝も、北朝も南朝も、戦前も戦後も、国粋主義も外国主義も民主主義も無いはずです。
天皇の存在とは、これらの綾なしの結び目を象徴しているのではないでしょうか?
昭和天皇は人間宣言をされた…神は祭り上げるものじゃない、人間が神の裔、神の型どりの象徴である、とはそれ自体、神の天降りを象徴しているのでしょう。
今生天皇は又それまで以上に国民のもとに、国民と共にあろうとされているようです。
天降りの見印しがありやかになるにつれ、国民に秘められたものもありやかにされてくるのでしょう…。




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消された神

2016-09-19 13:04:26 | 日本的霊性
古事記・日本書紀に代表される日本神話ですが、どこまでが神の世界の話で、どこからがこの人間世界の事かについては分かりません。
中には全く古代史のような視点で、つまりこの世に有った事象として、それを捉えている研究者も少なくありません。
それに従えば、天照大神も素戔嗚尊も人間だった、という事になります。これでは大本神話を借りなくても、”神は根の底に押し込められてしまった…”という事になりそうです。
神話と言うのだから、どっかで神的なものとの関わりは有った、と見るべきではないかと思うのですが…もっとも、それは神代の時代に限った事じゃなく、人間世界のどの局面にも、そうしたものが隠されているのだ、といつも申している次第です。
何にしろ、神代の話というのは、幾多もの決めつけた言説が存在しようと、要するに神に聞かにゃ分からないものです。
こういう事は、もう心象に留めておくに限ります。言い換えると何を、どう想像しようと、解釈しようと自由だ、という事です。ただ、それを心象の境界からハミ出して、外に向かって主張し出したら忽ち、内的世界の自治権は、容易く他の侵入に脅かされるだけの話です。
心象に…というのは、それだけじゃないのです。それによりその不確定ながらも内的に印象付けられる物柄を、より”意識的なものにすること”でもあるのです。こういう事を踏まえまして…
大本に代表される神話というのは、ご存じのように記紀神話には見られない異形のものを伝えていて、天理教祖中山みき刀自や大本教祖出口なお刀自の「お筆先」には、天皇家、朝廷に対する露骨な怨恨とも取れるような言葉も散見されます。
ところが出口王仁三郎師(師にはその出自を巡って取り沙汰されていることが有って、私はその近い縁の方からハッキリと肯定的断言を聞いたことがあります!)や日月神示の登場となると、和合的側面も見られるようになります。
どちらにせよ、その基調から我が国は大和朝廷以前に、神武以前にある種の大王が統治していた、ということが伺えます。私は(多分、多くの人にも)そのモデルとしてすぐにイメージし易い神名が思い浮かびます。”大国主”です。
如何にもとってつけた名前だな、と私は思うのですが、言うまでも無く出雲を統治していたとされる神ですね。これが覚えきれないくらい、沢山の別名を持っていまして、この点でも何となくデッチ上げられた神という印象を持ってしまうのです。出雲を代表する神にも関わらず、出雲大社の主神である以外、祭神としてほとんど見当たらないというのも不思議です。私の印象としては出雲地方というのは、圧倒的に”素戔嗚”とその妻神”櫛稲田姫”の国という感じがします。
大国主の別名とされているものの一つに、日本最古の神社とも言われる奈良の大神(おおみわ)神社の祭神”大物主”があります。
ここで浮上してくるのが、その大物主の別名とされている饒速日(ニギハヤヒ)という神です。(とにかくこの周囲には正体を分からなくさせる意図が有ったのか、別名、異名の多いこと…)
この正式名というのが、これ又とてもじゃないが覚えきれませんが、最初の四文字だけでもう、心象にブワッツと何かがインプットされてくるようです。
”天照国照…”アマテル、クニテルというのは天津神、国津神の二つの系統を合わせ持つ、統合しているということでしょう。今まで述べてきたのは、古代史的な観方によっていたのですが、この二系を顕世(うつしよ)~見える世界と幽世(かくりよ)~見えない世界に移し替えてもいいかも知れません。(事実古神道の主流では大国主などは幽政を司るとされていたのです)
ともかく私に感じられるのは、大国主という神、又国譲り神話というのは、神武以前の大王であった饒速日、その地位、国土を陥れた事を隠すために作られたような気がしてなりません。史実の改ざんとか、こういう話というのは言うまでも無く現世的な話ですが、私の心象にもっと投げかけられているのは、おそらくはもっと神々と交渉の有った時代に、見えない世界が封印されたのではないか、というような事です。
つまり元の神の押し込め、封印とは位相を変えて何段かに渡って行われたのではないか、と感じているのです。

私にゆかりの有った、豊岡の某教会の”知られざる神示”では、メインに登場する神名は救世主神、弥勒とも比定される”大国主”だったかと思います。これが後に丹後元伊勢に拠点を移してからの新たなる神示ではまるでベールを剥いだかのように、同社の主祭神、饒速日を弥勒、日の出の神として表しています。
私は勿論、決めつけたことは申し上げられませんが(心象の奥には決まった名などは有りません)、何であれ、救世的ハタラキとして心象に映じられているものは、神代以来の因縁、相克の縺れを開解し、現世と幽世とを統べ合わせるもの…和合に向けられているのは言うまでもありません…。

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