人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

和合

2016-09-18 12:56:48 | 日本的霊性
日月神示や出口王仁三郎師などの神伝とされるその言葉は、これまで何と表相的な予言や不思議な事象と結び付けられて語られてきたことでしょう。
そして又、今も尚数多に出現する、それに便乗するかの如き、類似神示の類…
サニワ師でもなんでもない私などが、真偽を見極めようなどと言うのは、筋が違うと思われようし、何が正統のものか、といったことは一概に決められないものでもあります。
ただ、自分のキ線に合うかどうかは、読めば分かります。読めないものは読めない…それが取りも直さず自分のキ線が如何なるものかを物語るのだから仕方ありません。
大本教神示類、日月神示などについて言えば、表相的に捉えられがちな言葉の奥に、所謂神仕組み、経綸というものが見え隠れしているのが、理解出来るか思います。
ここに留意しなければ、ただの興味本位の不思議の追っかけに終わるだけでしょう!
神仕組みというものも一口では言い表せないものですが、私の心象には、ハッキリとアクメと感じているものがあります。…それは和合というものです。少なくとも、これが感じられないものは、私のキ線とは合いません。
上っ調子の思念に捉われず、神との和合、親和に重きをおくべきなのです。
和合…これは何ともこの日本という国にこそ、備えられた仕組みではないでしょうか?
それには幾通りものパターンがあります。
火と水、厳と瑞、霊と体、男と女、イザナギとイザナミ、アマテラスとスサノオ、天津神と国津神、日本とイスラエル…
そして、思われたままの私と私そのもの…
これら全ての事は自分というものを他所にしては、何一つ意味などありません。
自分の事が、人生が分からない、迷妄にあるということは、自分が和合してない、という事に他なりません。
自己実現とか真我の実現という事も、こうしたことに関わってくるのでしょう。
和合ということが、示されるという事は、そこに分離というものが起きている、という事を意味しています。
さらには、その元は一つであった、という事も…だからこそ、その二相を巡り、魂が無性に懐かしさを覚え、惹きつけてやまない求めがあり、それが叶わない苦しみ、矛盾、相克対立の業因縁といったものが交錯しているのです。
中々自分自身の和合が出来得ない、という事は逆に言えば、自分も含めた世の中全ての和合も出来ていない、という事でもあろうか、と思います。
だからと言って、”世の中をどうにかしよう…”といった事に駆られるのは、迷妄の上に迷妄を重ねる試みに終わるばかりでしょう。
又、混迷する世界を他所にして、”私は悟った”とか、”私は救われた”などと宣うのは、ホントにオメデタイ限りです。
これらの事は、ことごとく見える世界(現世=顕世)と見えない世界(幽世)の和合が出来ていない、という事を物語っているのではないでしょうか?
この世に生を受けた限り、自己と世界は相即するものとして、あらしめられている、と言えます。
相即という事の中に、分離の苦しみ、和合という救いの神仕組みが秘されているようではありませんか?
これはどこまでも神仕組みなのであり、自称救世主の”我が世界を救う”などの妄言の出る幕などありません。
そして”神が表に顕れる…”和合は和合それ自体によってもたらされるでしょう。
それは又、神と人の和合、神人の顕現でもあることでしょう。
一元にもあらず、二元にもあらず…我が国には偏った、独善的教説が定着することがありません。内なる神が頷かないものは、身が頷かない、頭の理だけでは開かれません。頭と胴体が和合してないから…。神が開かなければ、開かない国…
日本は古来より”和を以て尊しとする国”と言いますが、和が秘められ、和をもたらす国柄であることを伝えているのでしょう…。





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磐座ー見えぬものの媒体

2016-08-07 16:01:52 | 日本的霊性
カタカムナ文献が発見されたのは、神戸東灘の金鳥山でしたが、関西在住の頃、体力に自信の無かった私はそのゆかりの山頂へは行ったことが無いのですが、その中腹にある保久良神社へは何度か訪れた事が有ります。
周囲には巨石がゴロゴロしていて、私は一目で”こんなん自然の作用で出来る訳ないだろう…”と感じたものでしたが、この巨石は磐座と呼ばれ、神社の原始形態とされていることは知られています。常識的な世界では、それらは自然石という事にされているようですが…
ここに限らず、西宮から神戸にかけての所謂六甲山系というのは、こうした巨石のモニュメントが数多く点在しています。
この地(磁)場こそ通称カタカムナ文明の中心だったのでしょうか。
他にも関西近辺では、紀伊の大台ケ原、京都(残念ながら市内にあったと思われるその多くは土中に埋められていたり、削り取られたりしています)など…私は何度かこうした地場を訪れているうち、”この巨石には何かが有る…体に染み込んでくる何かの波動のようなものが…”と感じるようになりました。
古来から聖地と言われ、奇談が伝わっているところには、こういう具体的にして、しかも名状し難い事由が存しているのでしょう。
出口王仁三郎師や宮地神仙道の開祖、宮地水位師が異界に出入したのは、それぞれ亀岡の高熊山、高知の潮江天満宮の磐座でしたが、私は神秘めかした表現であってもそれに偏ったり、捉われなければ無暗に否定したりなどしません。
逆にそのすべてを物理的なものに還元出来るものとも考えていません。
波動とかパワーなどと言うと、様々な尾ひれが付きまとい、あるいは超能力めいたものとも結び付けられて語られがちですが、私はこの感受は特殊な能力とは関係ないものだと確信しています。
どちらにせよ、先入観に捉われることなく、自分で確かめる事が大切だと思います。

22年ほど前、ある瞑想会の広島の宮島でのリトリートに参加したことがありましたが、ここの弥山の山頂付近が又、目を見張る巨石群と猿の群れがタムロしているのでした。
(その数十人いたほとんどの参加者は”いや、自然界には不思議な力が有るものだ、こんなケッタイな岩を造り出すなんて…”といった風で、私の”これは間違いなく古代人のモニュメントだ!”と言う主張には冷ややかなのでしたが、やがて現地のガイドがやって来て”古代の祭祀跡です!”と天啓を一言…それからは誰もその話題には触れなくなりました)
そこでは自分が波動を感受しやすいところで瞑想することが主眼だったのですが、私はもう、実際にそのように示されるのは磐座ばかりで、自分を波動の依代にして、(猿の奇襲にもめげず)瞑想三昧してるうち、磐座によって粗かったり、微妙なものだったり、波動の感じ方が違うことなど体感できたのは大変貴重でした。
平成14年の夏だったか、クエーカーの修養会が琵琶湖畔、北小松の同志社のリトリート・センターで持たれたのでしたが、私はその地に踏み入れた時から、何だかとても清々しい快感に包まれたのを感じました。そして付近には何やらそれっぽい雰囲気が…
あにはからんや、そこは古代祭祀場跡に隣接して建造されていたのです。
その快い息吹を醸し出しているのは、どうやらその近代的建造物からでは無く、もともとの地場から来るものと確信しました。
私が探索した限り、周囲には目だったものでは無いものの、磐座の痕跡も認められました。
その施設の集会場となっているところ、(”ペテロの岩”なるオブジェが有る)そこが実に強い波動ポイントのように感じられたのですが、見たところそれらしき痕跡は無いのです。どうも土中に波動の媒体が隠れているようにも感じたのですが…
そして、そこで持たれた合同礼拝会(といっても瞑想に近いものですが)は、忘れ難いものとなったのでした。
”今日は何かが起こる、もう始まる前からジンジンしてきた”という予感の通り、集う人は十人にも満たなかったでしたが、参加したほとんどの人が(中には涙を流す人も居た)自然発生的に起こる歓喜を実感したようでした。
何か古代の祭祀風景というものもこんなだったのではないか…と感じたものです。

異界への通路とまではいわないまでも、古来から磐座は潜象と現象の重要な結び目、媒体だったのでしょう。
外国ではほとんど廃れてしまった、こうした古代からの風儀も我が国には、神社という形でその面影は保たれているのです。
それも、我々自らが生ける宮、生ける媒体であることの証あってのものであるのは言うまでもありません。

















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原初的なものの復権

2016-06-19 13:29:46 | 日本的霊性
ある時、知人がしみじみとこんなことを言っていました。
「宗教なんて無くってもいいんだ。神を信じなくたって、ご先祖様とか何かのおかげで生かされているって事は誰でも分かる。そういうものを敬い、感謝さえしていたら、そんなものは無くたっていい…」と。
いや全くその通りですね。こういうごくシンプルな中にも、自己と大本の命と一連なりであることを伝えているものを忘れて、いつしか抽象的な人の言葉を信じる宗教なるもの、十羽ひとからげの集団的信仰形態が主流になっていったのです。
本来、命は一人一人に根づき、息づいているものにも関わらず…
我々日本人には、もともとそうした感性を与えられていました。
特別な神信仰など無くても「お天道サマが見ている」とか「おかげさまで…」と見えない何か畏敬すべきものに常に観照されている、守られていると自然に生活感覚として認識されていたのです。
”南無阿弥陀仏”の浄土仏教が民衆の間に浸透したのも、この基盤が有ってのものでしょう。
ところがこれと似たような信仰を伝えるキリスト教はちっとも根づくことがありませんでした。
これはおそらく、西洋カブレ、バタ臭い、というのが一番の理由だとして、キリスト教には我々の命の根源、ルーツへの回帰という思念が伝わってこないからでしょう。
それどころか、主流のキリスト教はヨーロッパといい、アメリカ大陸といい、教線を広げるその各土地において、それまで息づいていた土着の文化の根を断つという事に執心してきたという罪深い歴史が有ります。
(原初の福音には、アブラハムの生まれる以前から生き通しのキリストへの連繋がありましたが…)
こういう事は全く我々の歴史風土にはそぐわないのです。”ゴハンにチーズだのマヨネーズなど食えるか!”ってもんです。
我々は代々、古から連々と伝えられている命によって育まれて来ているのです。これが日の本の国ぶりなのです!
それは本当はユダヤの民だろうと、ギリシア、ローマだろうと同じはずです。
今現在、原初から存在していることを伝えているものが、その生きた証なのです。
根を持たないものは、著しく変質するか、枯渇して死に絶えるしかありません。
(ただし、原初的なものは一度表舞台から姿を消しても、復活するでしょう)
根とは、今ここに見えているままの部分的現れのそもそもの根拠であり、本体です。
これと切り離されたものは、浮草のように風と共に去って行くだけでしょう。
一コの存在だけがそこにポツンと在る訳では無い…限定された一コからのみ為されたものは、実を結ぶことがありません。
悟りとか魂の目覚めというものも、その個人に帰せられる何ものも無いのです。
その事自体が、自己のルーツ、大本自体の自己顕現と言っていいでしょう。
このルーツには先祖のつながりばかりでなく、これまで秘されていた霊のつながりもある…むしろ霊性の道にはこちらの影響の方がより強く働くものと思われます。
自分が悟るとか目覚めるとかいうより先に、この内奥に息づく大本の命は表に顕れ出ようとしているものなのです。
ややこしい信仰だとか修行などにカブレたり、捉われたりして、発芽の営みを塞いだりしてはいませんか? 余計なものは要らない!昔からあるものが一番です。
根と幹、枝の関係は、縦の歴程的つながりばかりでなく、枝分かれという横とのつながりという関係をも表しています。
この国の歴史風土には、かつて産土の神を中心とした氏族共同体が存在したことが伝えられていますが、それは多く肉的先祖との関係で捉えられて来ましたが、私はそこには、何らかの理由で霊のつながり、霊統というものが覆い隠されてしまった、という(これは多分人類的規模の)大きな節目となる経緯があったことが感じられます。
江戸末期以来の民衆神道に観る”元の神が世に出る…”といったフレーズは、この原初的なものの復権を伝えていたのでしょう。
そして今日、霊性の開花、見えざるルーツのフタ明けと共に、我々の内には、血統の他に霊統が息づいていることが明らかになるでしょう。
それは来るべき神の国への希求であるとともに、原初への回帰でもあるのでしょう…。






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捨聖・一遍上人

2016-01-27 13:52:55 | 日本的霊性
ユダヤ教、特にハシディズムについて貴重な研究をされている手島佑郎先生には、「禅とハシディズムの比較」という、これまた実に興味深い英文の著書が有るとかで訳本の公刊が待たれるところです。
ブーバ―にもそのような研究が有るそうですが…門外漢の大雑把な私見ですが、あまりあの動的な祈りの集団とはイメージが湧きません。
ハシディズムとの類似ということで、私の念頭にすぐ浮かぶのは、鎌倉仏教に異彩を放った一遍上人と時衆と呼ばれる一群です。
一遍上人は他の高僧たちに比べ知名度も低く、業績というのも知られていませんが、私は本当の意味で”日本的霊性”を体現していた聖人だったと思っています。
彼が長い間、その存在が知られて無かったのは、書き物をすべて焼き捨て、後継者も作らず、拠点となる寺も建てず、文字通り自分を消し去ってしまったからです。捨聖(すてひじり)といわれる所以です。
彼は便宜上、時宗という一派の開祖とされていますが、これは他阿という弟子(実質的な開祖)がその師の意志に違えて起こしたものなのです。
貴重な事に弟子たちが図絵入りで足跡を記している巻物(一遍聖絵)見つかったので、今日その存在が知られるようになりました。
この図絵が実に親しみ深い!一遍の周囲には老若男女、貴賤を問わず自ずと集まってきた模様が生き生きと伝わってきます。
浄土門というと法然・親鸞に代表されるものを主流とすれば、いわば裏の浄土門ともいうべき流れを継いでいるのが一遍なのです。
上人の周りに形成された一定の組織、拠点を持たない原初的な信仰集団を時衆(これが一宗派として発展したのが時宗)と呼びますが、全国各地の寺・(浄土系の寺とは限らず、又神社も含まれるのです)などを遍歴し、そこに仮借して布教をしていました。これを遊行(ゆぎょう)といいますが、何時頃から我が国に派生したのか定かではありませんが、このように信仰的に自由、(観方を変えると)いいかげんなところが特徴です。(それにしても実に原始キリスト教、原始仏教などを彷彿させるではありませんか?)
ちなみに上人が布教に行き詰った際、活路を見出したのは熊野本宮に参詣し、そこで有名な「信不信、浄不浄を選ばず…南無阿弥陀仏の六字の名号に衆生の往生は定まっている…お前の行いによって決まるのではない…」といった熊野権現からの諭しに預かったからとされています。(熊野成道)
彼らの布教の在り方で、民衆たちの間で注目を集めたものに”踊り念仏”というのが有ります。
現在では、民俗芸能としての興味でしか観られてないようですが、古来より遊行僧の間で伝わっていたようです。
如何にも暗く、静的な印象の強い主流の浄土系のそれと違って、先の図絵などから伝わってくるのは、歓喜雀躍、実にダイナミックなものです。
私はこれは元々シャーマニックな、自然発生的な現象とみているのですが、神道に伝わる鎮魂ミタマフリの伝などとも相通ずるものが有るかも知れません。
前述のとおり一遍の念仏の理解も、法然・親鸞の主流の浄土系の根幹ともいえる所謂阿弥陀仏の本願思想など、ともすれば我々の心情的なものに傾きがちなに重きを置いた在り方は後退しており、より原初的というか、生命的、ハタラキ的なものが前面に出ている感じがします。それが踊り念仏の集団エクスタシーとなって表出したのでしょう。
そしてそこには、”やれ自力だ、他力だ…”と鎌倉新仏教の主流にしばしば見られる自派の教説を押し立て、護教論に走ることも無く”信不信、浄不浄を選ばず”のとおり、…聖俗の区別も無い、神ながらに包容してしまう生き方を示しました。
私は神道、仏教を問わず、原日本的霊性というものはこのような息吹を伝えるものだと思っています。
ところで、この阿弥陀仏というもの…アミターバとは無量寿、無辺光…限りなき、遍き光と一体の仏のことです。
障壁のようなものに閉じこもるという事態がオカシイのではありませんか?
そしてこの実にシンプルな一遍(一にして遍く照らす)というこの法名がなんとこの消息を表していることでしょうか!

「唱ふれば仏も我もなかりけり南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」(一遍上人)




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日本人の目覚め

2016-01-02 15:31:03 | 日本的霊性
正月はとにかく初詣…
お寺にしようか、神社にしようか、神と仏とはどう違う、とかごちゃごちゃ考えんと、とにかくお参り…猫もお出迎え…
でなきゃ新年は始まらないの!誰が決めたか、国民的行事なんだからしょうがない…

”半分は観光、娯楽気分だからいいものの、この国民がこぞってマジメに(何の神だかはともかく、東の宮の方に向き出したらちとヤバイかも…)一斉に目覚めてしまったら一体どういう事になってしまうだろう”
これが気味悪くてしょうがないんですよね。
欧米の、また欧米化したある種の”フタをしておきたい”人たちには…
だからなるべく内実には触れさせないように、骨抜きにしておく必要が有るんです。
今はちょうど政府がオカシナ方向に行こうとしているし、”ホラホラまた悪夢の軍国主義が復活しますよ!”と言揚げしとかなくっちゃ…とかなんとか言うけれど…
悪夢の軍国主義はもういい、コリゴリです。あんなプロシア辺りの皇帝崇拝の借り物なんか…
この国にはね、”和をもって貴しとせよ…”という国振りがあって、今日の快晴の谷中あたりののどかな風情が合うんです。
大和魂が目覚めるという事は、宗教、思想のなんだかんだじゃなく、なんだろうと”神ながら言揚げせず…”と言う精神が目覚める、という事なんです。
やれ神学だの、お説教だの堅苦して深刻なのは、ちと似合いません。
初詣で賑わってる寺社を見て下さい。そこには聖域も日常の俗域の区別などありません。
宗旨が違うとか、次元が高いとか低いとか、清浄だとか不浄だとかの区別など無いのです。
どうも中に入るには、気が引けるような門構えも有りません。
”オープン、無条件でいいんだ”と促しているようです。
でもね、それでいて奥の院とか奥山と呼ばれている場所もちゃんとあるんです。
普通の人には気が付かないところにヒッソリ、とね。
それは…人生の裏側の出入り口の型どりというべきでしょうか?
やはり聖俗の区別のつかない空間に、ポッカリと時空を超えた世界への通用口が顔を出すのを表している様な…
見えないものを見えるものに表している型どり…諸々の宗教思想の教説も、どんなにエライ覚者さんも教祖さんも型どり以上のものではありません。
それ以上のものになってしまえば、型どりも偶像に堕してしまいます。
型どりとは、それを通してそれを超えてあるものへの気づきを示しているのです。

初詣では、多くの人は何かの願い事を祈るのでしょう。幸せになりたいがために…
”神様OOをかなえて下さい”と…神仏は願いをかなえてくれるものなのかどうかは、私は知りません。
でも、神というか自分を超えたものに触れたなら…(今の境遇はどうあれ)それは間違いなく幸せな事です。
だからいつも私が祈る時は、”私の全てにあなたが生きて働いて下さい…あなたが全てに現れて下さい…”というものが心象に有ります。
(決まった祈り言葉が有る訳じゃないです。)
神は我々の願いを聞いて下さるのか、平和をもたらしてくれるのかは分かりません。
しかし、神ご自体が幸福そのもの、平和、平安そのものなのです。そのものの顕現…
私の全てとは、私の世界、私の宇宙…自分と切り離されたような抽象的な世界のことではありません。
私の何もかも…これが皆さん一人一人の何もかもとつながってメデタシ…。

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