人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神との接触

2024-06-25 10:03:20 | 求道、探究
神学者、哲学者の滝沢克己先生は、神と人間の関係は、神と共にある、不可離のものである(インマヌエルの関係)と説いていました。
これは、神を信じようと信じまいと、誰しもがそういう原態的な構造を持っているとされ、それを第一義の(神との)接触と言い、精神的な道を歩み出し、何らかの気付き、などを通してそのことに目覚めたりすることを第二義の接触と説いているのです。
しかし、よく考えてみると、後者はともかく前者は、あくまでそういう人間の原態についての存在論的な説明に過ぎないと言わざるを得ないでしょう。
言うまでもなく、私は生まれついた時から神と共にあることを感じて、生きて来た訳ではありません。
そのように我々は、宗教、スピなどと関わり、修行や覚醒体験などで直接示されない限り、そういうことが明らかにされることは無いのです。
つまり、一も二も無い、神との接触を通じてしか、それを分かりようが無いのです。
しかしながら、その界隈には実に“人間は本来神の子、神と一つのもの“、といった、先入観念を植え付けてしまう信仰ごとが越境して語られることが多いのです。
そういう教えに触れ、共感したとして、そのことを神に直接ゆだね、聞くという実存的、主体的な心的態度というものが必要でしょう。
そうでないと、本当に身についたことにならず、生きたものとはならないですよ!...
というようなことを書いてみたのですが...共感?、う~ん!...
言葉に触れて、元々自分の中にあるものが呼び覚まされるということもあるものです。
又私は当たり前のように、“神に聞けばよい!“何て言っちゃってます。あなたにはあなたの神が居るだろうということを前提にしたみたいに...私だからそういう風に言うのかなあ?
この場合、共感する、神と言わずしても、自分を超えたものに意識が向けられることがもう、先の“接触“と言ってもいいでしょう。
そこには、単なる言葉による刷り込みでは説明がつかないものを感じます。
初めは漠然と感じているだけでも、ある契機にアリアリと目の当たりに直感されることもある...かもしれない?...これを現臨にある状態と呼んでいるに他なりません。
この意味で初めの方を第一の接触、後のを第二の接触と言ってもいいかもしれません。これはしかし、すべての人に当てはまるのかどうかは分からないですが...
接触があって初めて分かるものには変わりはないでしょう。考えている一個なる自分だけからは!...自分は自分だけで生きてはいない!
これが分かった人は、接触もなにもそうなっているのが分かるだけでしょう。
それは、あたかも空気と接触しているようなことなのでしょう。
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気付きと苦しみは隣り合わせ

2024-06-07 10:00:48 | 求道、探究
宗教、スピ、哲学...精神的な道ではすべて”自己、本当の自己とは何か”、それを明らかにすることを問題にしていると言っていいでしょう。
キリスト教などでは、よく”自己を捨てなければならない、そういう思いは十字架にかけて無くさなければならない”、なんて説いていますが、それはキリストにある自己が真の自己なんだということを言わんがためであり、結局は同じことでしょう。
それに、思考も欲望も人間として生きている以上、無くなったりはしないのです。
ただ、それらは超えなければ、真我に目覚めることは出来ないことに気付いて、そういうことを言う訳ですが、私がクドく言うように自分からは超えられないのです。超越的なハタラキ無しでは!
哲学的に考える人などは、そうして真の自己を追求し、そしてそういうものは、この一個なる自己だけに、考えている自己のみに求められないことに気付くはずなのです。
そこには、どうしても思考のみからは超えられない壁がある。
これは、普通に考えてみても、限りある、一部分だけからは、それを超えた包括的なもののことが分からないように、不可逆的原理、法則のようなものなのです。
これにブチ当たらない人は、どこまでも、どこにも行き着かず、導かれない思考の限界まで追求してやまないのでしょうか?...(だからそこに超えられない壁があると言っているでしょ!)
飽くなき追求に取り憑かれていたら分からないでしょうが、どこに壁があるかは分かりますよ!...思考を断絶させるハタラキがあるから!
私は無のハタラキ、無化させるハタラキとか呼んでいますが、先の通り、それでずっと思考が無くなる訳でなく、この気付きをもたらすために一時的にそうなる(中にはそれで無くなる~人間で無くなる人も居るかもしれませんが)ということなのです。
私の場合も昔から哲学的に考える質でしたが、先のように自分のその旺盛なる思考活動を楽観視していませんでした。むしろ、その絶え間なく去来する思考のがんじがらめ状態に苦しみを感じていたのです。
”この考えすぎる私は一体何だ!(笑)
宗教的なことにも関心がありましたが、思考、分別智を無くさないと、悟りの道は開かれない、という固定観念があって、これじゃあ、ダメだ、ダメだといつも思っていたのです。
しかし、今思えば、その思いのトラワレ状態があったこそ、それを超えたものに与ることが出来た、そういう導きを受けたということに気付かされます。
つまり気付きというものは、多く苦しみがもたらすものであり、隣り合わせのものだと言えるでしょう。
具体的にアリアリとその無化のハタラキを受けたということもありますが、それ以前から思考の密閉状態に通気口が開けたように、そのトラワレから解き放つ風のようなものを感じることしばしばだったのです。
そして、そこには又必ず”私はこうして考えている自分だけが私なのではない”、という気付きがもたらされていたのです。
私を超えたもう一人の私...それは私の自我意識の中に隠れていたと言っていいでしょう。

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自我、肉体というもの

2024-06-06 09:58:23 | 求道、探究
悟りや覚醒に与るには、思考マインドや肉体感覚を無くさなければならないのです!...なんてことはない!
私は、それらから離れるとか後退させるというようなことはともかく、そんなこと言ったことは一度もありません。
ホントに無くしたら、ふにゃふにゃになって人間として生きていくことなど出来なくなりますよ!
何度か言っているように、悟りとかのことだけでなく、問題となることは、考えている自分、肉体としての自分、それ”のみ”、それ”だけ”がすべて”のように、そういう制限された思いに囚われている、ということに尽きるのです。
そこから自我意識というものが生まれてくるのです。だからそれを捨てたらいい...ってそうじゃない!...そう思っているのは間違いなくエゴマインドですよ!...そうして出来もしないことを考えているのです。
この自我は、本当に自分がここに現存していることがどういうことかが分からないのです!...考えるのだけど分からない、考えているから分からない?...
だけど、そういう実存感覚というもの自体、この自我意識なしには目覚めることは無いのではありませんか?
”私はここに在る”という感覚の、そもそも普通我々に始めに芽生える端緒は、”他の何ものでもない自己、一個なる自己、つまり個我意識と肉体感覚にあるのではないでしょうか?
ところが、あくまでそれらは、より包括的自己の見える形として表れている、部分的な存在なのであって、その私自身の現存を目の当たりにすることは出来ないのです。
それは、見えない、分からない!...ここがその限界を超え、突破に与るか、それに囚われてしまうかの分岐点なのです。
本当に自我意識の無い人間は、この地点に立つことは出来ないでしょう。
いや、普通に考えたら分かるでしょう。何故、人は誰でも物心が芽生えると、自我意識が発達するということが!
”自分がここに居るということはどういうことなのか?”、ということに否応なしに意識が向かわせられるのです。
又肉体があれば食欲も性欲も生まれます。それらが満たされたら幸福に感じるかもしれません。いいやそうじゃないでしょ?、そういう感じがするだけで満たされたらそれは無くなるでしょ?
そうして得たら、消えてしまい、得られなければ、失えば不幸になることばかり追いかけている...常住の幸福というものは、肉体的快楽には求められない...しかしこのことも肉体感覚あって分かるものでしょう?
限界というものが本当に分かることによって、初めてそれを超えたものがあるということに気付くことが出来るのです。
限界というものが意識されることが、超えたものに与ることなのです。
だから、自我意識、肉体はけっして否定さるべきものじゃないのです。
天与のものに、何一つそんなものなどあろう訳無いではありませんか?
少なくとも、自我意識無しには人間は誰も悟ることなど出来ないでしょう!?...

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古くて新しい道

2024-05-22 10:11:07 | 求道、探究
例の反面教師の画伯は、五井先生の狂信者と言ってもいい御仁なのですが、”消えてゆく姿で世界平和の祈り”は、教義、修行方法として完結しているので、それに何一つ付け足すことも、省くことも出来ないと言い、そのように型通りのまま40年以上(!)も従い続けているのです。
ところが、その一方で五井先生が決して言及しないような陰謀論なんかを含んだカルト的な教えにハマったり、”不食”という雑行をやり出したり、言っているほど一向専念にし続けているようでもないようなのです。
何にせよ、それらはすべて他人のやり方に追従しているだけなのです。
狂信者というのは大体がそうなのですが、何故そのように他人の真似ごとをし続けなければならないのでしょうか?
いや、先師的な人たちの影響というものは、誰にもあることには違いないですよ。私もここでどれだけそういうことに触れてきたか分かりません。道を歩む者でそういう縁を持たない者など居ないでしょう。
だけど、そのことと、ただ主体性も無く、受動的に盲従することとは違うと言わねばなりません。
だから、教えとか修行方法というものはですね、自分に合うようにあっちから少し、こっちから少しと混ぜてですね、色々付け足したり、改良したりして、自分なりのものを造ったらいいのですよ!...って、私はそういうことをここで言っているのではありません。
何度も言うように、私の独創による教義的理論や修行方法など、アタシャ何も持ち合わせてなどいないのです。
現臨がどうこうとかあまり聞き慣れない言葉が頻出したりしますが、それがどういうことを言っているのか、過去幾多もの先師たちが説いていることと照らし合わせて、理解されてみたらいいのです。表現はともかく、そういうものに触れないものは皆無ということが分かるでしょう。
だからと言って、先師たちの教えにベッタリ、オウム返しなど出来る訳ないでしょ!...私は猿でも彼らのコピーでも無いのだから!...
私は過去のマスターたちの残された偉大な道を借りながらも、自然に、無理なく私自身の大本に目覚め、つながる道に従うまでなのです。いや、そういう導きを受けていると言った方が適切でしょう。
それは、私自身の大本、本源から来るであろうことは、自然に、無理なくそうなることで感じられるのです。
決まった言葉、型にはまった教えややり方というものは、時代にそぐわないところも、型通り従うことで、不向き、無理というのも出て来るものです。
そういうものには、主体性を欠いた追従者しか寄りつかなくなるでしょう。
ちなみに先の五井先生の教え、やり方にはそういう無理強いのようなものは、先生自身の言葉からも私には感じられません。気に入ったらやればいい、いやなら止めたらいいのです。実に自然なことではないか?
ちなみに又私は特定の方法は示すことはないが、祈ることの重要性については言っているのです。祈る、神に思いを向ける、入れる...神と共にあることで思いが超えられるとも!...
これは、五井先生の教えのバリエーションに過ぎないようなことですが、あまりこういう言葉の説明に囚われても意味はありません。各人各様の自由さを活かして欲しいのです。
五井先生の道は、本来そういう自由さ、寛容さにあったのではないでしょうか?
宗教的教相に囚われた在り方はもう時代遅れなのは分かり切ったことではないか!...先師たち共々、その表された本来性に帰ることが古くて新しい霊性の道を開くことになるでしょう。
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神と自己の対向

2024-05-19 09:24:25 | 求道、探究
霊性の道においては、”一つになること”が重要視されています。
神、真我、真理...と一つになる。
ということは、そういうものを自分と分離しているように、対象的に認識したままではいつまでも一つにはなれないということです。(このことが取りも直さず、思いを超えるということを意味しているのです)
その中で神というものは、普通に礼拝対象として捉えられていますが、霊性の道ではそういう在り方は、否定されるか乗り越えられているのです。
又、普通に考えて、感じてみて真我、本当の自分というものを対象化するというのはおかしい。そうでなくとも、それになるというのは?...誰が誰になるというのか?
おかしいから神を求めるのです。神そのものを求める...もはや礼拝対象ではなくなります。
しかし、どうしても自己と、その現前にある超越者として向き合うということはあるのです。
これは先のように、自己と対象とが二つのままになっているということではありません。
二元的でありながら、向き合うという、一如の関係というものがそこに成立しているのです。
ユダヤ系の哲学者、マルティン.ブーバーが説えた、”我と汝”の関係というのもこのことを言い表しているに違いありません。
私はこれを対象認識(ブーバーに従えば”我とそれ”の関係)でなく、対向認識とでも呼んでみたいです。車の対向のようにすれ違うものでなく、二つのものが一つに惹きつけ合うような関係...最愛のものと向かい合うことというのはこういうことではありませんか?
何故そういうことになるのか?...ここに、二つのものが元々一つのものであったことが想起されて来ます。
即ち、我々が神を求めるということは、内的必然性、本性からなされるということなのでしょう。
神と一つになることは、真我に目覚めることと一つなのです。
然るに、人間は本当の自分のすがた、在り方を失ってしまった...だから、神的なものが我々の現前に臨みたもうのです。
小池辰雄先生がいつも言っていました。”いつまでも神を信じ、仰いでたってしょうがない!、信じ、交わらねば!”...
ああ...もう神が私か、私が神か?...惹きつけてやまないものを日増しに感じずにおれません!...



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