私はいつも祈りと瞑想は切り離せるものではない、ということを言っています。
わが国では、大雑把な観方ですが、祈りは念仏に、瞑想は座禅に代表されるようなイメージを持たれる向きが多いようです。
それを巡って他力がどうとか、自力が何だとか、何が違うのかとか、相通ずるものがあるのだとか、メンドクサイ比較がなされたりしているのです。
両者には、各々長い伝統によって守られてきた、座法であったり、祈りの言葉など、出来上がった形があるので、どうしてもそういう風に、二つあるものとして捉えられてしまうのでしょう。
”禅浄双修”なんてのもありましたが、どうしても中途半端、不徹底になり勝ちになるのは否めません。
では、これを一つのものとして捉えられる道は無いのでしょうか?(私的にはそれが無いというのが不思議でならないのですが)...”おお、これが有ったか!”...それはバクティ.ヨーガです。といってもあまり馴染みは無いでしょうけれど...それについて書かれた邦訳文献が少ないとキテる...僅かに「ナーラダ.バクティ.スートラ」、スワミ.ヴィヴェカーナンダの「バクティ.ヨーガ」、その師であるラーマクリシュナのそこで随所で語られている、「ラーマクリシュナの福音」(いづれも日本ヴェーターンタ協会刊)ぐらいしか知られていません。
バクティ.ヨーガとはその呼び名の通り、ヒンドゥー教に伝わる瞑想法の一つとして認識されていますが、私にはそういうものを超えて、その言葉一つで、神への帰依、信愛、瞑想は切り離されないものということが伝わって来ます。
いやいや、そういうことよりも何よりも”神の愛”がすべてなんだ!
前出の「バクティ.スートラ」には、神と一つになるには、聖典を学ぶとか、教えを守るとか、欲望を制御するとか、色々事細かく述べられています。
だけど、聖典を読もうとする前に、神が臨んで、神の愛に包まれてしまったらどうするのか?
それを中断して、”聖典に集中しろ!”、なんて言うのはナンセンスですよ!
私は例によって、色々な中途のことはぶっ超えてしまって、取りつくシマの無いようなことを言っているのでしょうか?...ろくに修行もしない人間がいつの間にそんなに進んだのか?...余程のナニなのか、イイカゲンなのか?...
いいや、私がどうこうじゃない!...神の愛がすべてだ、と言っているのです!
どうにも捉えどころが無いという向きは、聖典を学ぶとか色々されたらいいでしょう。
でも、それは神の愛を知るヨスガであるのは言うまでもありません。
神への帰依、信愛を養うために...いいや、そこには神からの愛、本願的なものが先立っているのではないか!...神の愛がすべてとはそういうことなのです。
...と、こう書いて来て...インドには祈りと瞑想を一つにした道が伝えられているようだけど、日本には”弥陀の本願”、”如来より賜りたる信心”を伝えた親鸞上人が居られるではないか?、ということが過ってしまいました。
これは、ですからこちらがどうこうとか、方法とか念仏行というものさえも超えているということを言い表しているのでしょう?
この消息のものが受け取られたら、そのままサマーディ(三昧)にまかせる他ありません。
だから、そこには祈りも瞑想も、ヒンドゥー教も仏教も無い!...
と、いつもどうしてもこういう調子になってしまうんだから仕方が無い!
要するに...禅も念仏もバクティも帰するところは一つということなんでしょう?
私には違うものとして二つ並べられたものは、入ってこなくて、元々一つのものが最初から入っているようなのです。
わが国では、大雑把な観方ですが、祈りは念仏に、瞑想は座禅に代表されるようなイメージを持たれる向きが多いようです。
それを巡って他力がどうとか、自力が何だとか、何が違うのかとか、相通ずるものがあるのだとか、メンドクサイ比較がなされたりしているのです。
両者には、各々長い伝統によって守られてきた、座法であったり、祈りの言葉など、出来上がった形があるので、どうしてもそういう風に、二つあるものとして捉えられてしまうのでしょう。
”禅浄双修”なんてのもありましたが、どうしても中途半端、不徹底になり勝ちになるのは否めません。
では、これを一つのものとして捉えられる道は無いのでしょうか?(私的にはそれが無いというのが不思議でならないのですが)...”おお、これが有ったか!”...それはバクティ.ヨーガです。といってもあまり馴染みは無いでしょうけれど...それについて書かれた邦訳文献が少ないとキテる...僅かに「ナーラダ.バクティ.スートラ」、スワミ.ヴィヴェカーナンダの「バクティ.ヨーガ」、その師であるラーマクリシュナのそこで随所で語られている、「ラーマクリシュナの福音」(いづれも日本ヴェーターンタ協会刊)ぐらいしか知られていません。
バクティ.ヨーガとはその呼び名の通り、ヒンドゥー教に伝わる瞑想法の一つとして認識されていますが、私にはそういうものを超えて、その言葉一つで、神への帰依、信愛、瞑想は切り離されないものということが伝わって来ます。
いやいや、そういうことよりも何よりも”神の愛”がすべてなんだ!
前出の「バクティ.スートラ」には、神と一つになるには、聖典を学ぶとか、教えを守るとか、欲望を制御するとか、色々事細かく述べられています。
だけど、聖典を読もうとする前に、神が臨んで、神の愛に包まれてしまったらどうするのか?
それを中断して、”聖典に集中しろ!”、なんて言うのはナンセンスですよ!
私は例によって、色々な中途のことはぶっ超えてしまって、取りつくシマの無いようなことを言っているのでしょうか?...ろくに修行もしない人間がいつの間にそんなに進んだのか?...余程のナニなのか、イイカゲンなのか?...
いいや、私がどうこうじゃない!...神の愛がすべてだ、と言っているのです!
どうにも捉えどころが無いという向きは、聖典を学ぶとか色々されたらいいでしょう。
でも、それは神の愛を知るヨスガであるのは言うまでもありません。
神への帰依、信愛を養うために...いいや、そこには神からの愛、本願的なものが先立っているのではないか!...神の愛がすべてとはそういうことなのです。
...と、こう書いて来て...インドには祈りと瞑想を一つにした道が伝えられているようだけど、日本には”弥陀の本願”、”如来より賜りたる信心”を伝えた親鸞上人が居られるではないか?、ということが過ってしまいました。
これは、ですからこちらがどうこうとか、方法とか念仏行というものさえも超えているということを言い表しているのでしょう?
この消息のものが受け取られたら、そのままサマーディ(三昧)にまかせる他ありません。
だから、そこには祈りも瞑想も、ヒンドゥー教も仏教も無い!...
と、いつもどうしてもこういう調子になってしまうんだから仕方が無い!
要するに...禅も念仏もバクティも帰するところは一つということなんでしょう?
私には違うものとして二つ並べられたものは、入ってこなくて、元々一つのものが最初から入っているようなのです。