人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現臨は絶対的なこと

2024-09-09 09:33:24 | 現臨、ハタラキ
私は、ご存じのように、様々な異なった宗教、スピの教えに共感して来ましたし、異なった教師たちから多大なる影響を受けて来ました。
だから、ここでそういう一つの枠に囚われずに、自由に色んな教えに触れ、学んで行きたいと思っているのです...って、そうであるのですが、そうでもありません。
それだけだったら、あれとこれとかに意識が分散してしまって、焦点が定まらず、思いが巡らされるばかりで、それを超えたものなど臨んでこないですよ。
神的な現臨というのは、意識がそうして深まるところに開かれるのです。(これは、いつも言っているように、意志想念で、意識を集中させようとすることでなく、自ずからなるハタラキがあるということで、そういう場合、ハタラキにくくなるということなのです)
つまり、宗教、スピ、教えというものはいくつあってもよい。しかし、その大本には、一なる神の現臨、ハタラキがあって、全てで一つなる有り様がなされるということなのです。
もっともこれは、かつて狂信的な教団に入っていて、その在り方に耐えられないような不自由さ、苦悩を抱いていた私に開かれた道なのでして、枠を取っ払って、色んな教えを学んだらいい、何て短絡的に言っているのではありませんよ!
私も例えば”五井先生が好きで好きでたまらない”、という人を知っていますが、ホントに惹かれてしまうのなら、それはしょうがないことなのでしょう。(私の場合は、あの先生にもこの先生にも惹かれてしょうがないものを感じているのですから!)
だけど、”この先生のこの教え以外は真理でない、救われない!”、などとというのは、余計なことで、極めて宗我、自我意識に囚われているということを示しており、これの有る無しが狂信者かどうかの分かれ道ということにになるでしょう。
そして、一人の教師、一つの教えだろうと、それがいくつあろうと、その奥に形を超えた、霊なるハタラキがあるのを誰しもが感じられるはずなのです。そのものがこちらを惹きつけてやまないのではないでしょうか?...このことをもっと意識してみて下さい!
そのハタラキそのものは一つなのです。その表れ、感じ方、説き方などには異なる部分もあるでしょうが、自己実存に関わり、開くハタラキは一つ。そうでなきゃ、唯一無二の、本当のあなた自身に目覚めることは無いでしょう。
私に直接的に臨み、浸透してくるということは、思いの世界で信じたり、従ったりする、思想や主義や信仰などと違って、もう決定的なことなのです。
これは、相対的な表れに対して、絶対的なことと言ってもいいでしょう。といって、それは、いくつかあるうちのこれだけが正しい!...なんてのは絶対的に間違ってますよ!
あなた自身の神は相対を絶している!...それがあなたの思いを超えている、ということに他ならないのです!
私はこれまでその八方美人的に、次々に異なる教えに共感してゆく在り方に対して、”あなたには中心となるものが無い、根なし草みたいだ!”、などと批判的に受け取られることもありました。
だけど、こういう私の内奥の、裏側の消息のことは、ほとんど語られたことが無かったセイもあり、理解されてこなかったのです。
そこで、こうしてここで自分の言葉で、感じているままを書き表している次第なのですが!...
いやもう、書けば書くほど、ハッキリとその臨在感が増して来て、もはや、”私が生きているのではない、あの御方が私の内に生きているのてある”、という具合になって来たではありませんか!...
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