私は時にここで語調を強め、決めつけたことを言ったりすることもあるかもしれません。
言い訳がましいですが、他に向けて何かを発信するということは、どうしてもそういうこともあるものでしょう。結論みたいなこと言わないと閉めらんないし...
でも、私は自由な精神で書かせてもらっているんだし、読み手の方もあまり言い回しに囚われないで、書かれたものはあくまで参考くらいにして、自由な精神でお付き合いしてくれたら、と思います。
その点宗教の世界などは、そういう自由な精神はあまり生かされないようで、信者はただ教師の言葉に追従、鵜呑みにしているだけで、ちっとも主体的に真理の探求などに関わることが出来ないようです。
だからか、私は宗教信者が光明を得たとか精神的に目覚めた、という話はほとんど聞いたことがありません。
それもそのはず、例えば”人間には肉体を超えた霊体というものがある、死後の世界がある、いくつもの霊界の段階がある、前世というものもある...”、という風に頭脳知による知識だけで、先入観、固定観念が精神を支配してしまい、旧い水でいっぱいの器には、新しい水が注がれないように、自分の思いを超えたものからの直接的な”超智”を受けることが出来ないからです。
あなた自身が、本当に直観智で、肉体を超えた霊なるものとの関わりや、自分が元々神的なものと一つのもの、ということを感じたのなら、それは多分受け入れるしかないでしょう。
ただ、私の感じでは、そういうものは、何かの景色を見ているように、思い描いたような言語表現は出来ないのが普通だと思います。
これが言い換えると、決めつけたように言うことは出来ないということであり、そして人の思いを超えているということなのです。
光明を得た、という高僧だとか、ヒンドゥー教の導師の弟子、キリスト教修道士とかは居ます。彼らは例外なく、宗教的なドグマなどから自由であり、主体的に探求に関わっていたはずです。
又、デキアイの宗教信者だった人間でも、光明を得る契機にそれらから自由になったという例もあるでしょう。それもどこかにそういうものを待ち望む心持ちがあったのでしょう。
私はもう正直、何かの比喩的、象徴的な表現ならいざ知らず、見えない世界のことを見てきたように、他に信じ込ませんとばかりに、決めつけたように語られる言葉は、生理的に受け付けないものを感じてなりません。
要するに、思い、為す人間は、すぐ短絡的に結論を求めようとするもので、精神世界という実証することの難しい分野にもそれを求めようとしますが、分からないものは分からないままでいいのです。分からないものを分かったように思い込み、信じ込むから妄信がはびこるのです。
分からなくても、直接感じていたらいい、そういうものを求めたらいいのです。
それは...そう、愛、平安...そういうものでしょう?
今は、教師と信者のデキアイの関係が支配する、宗教世界の時代は終わりを告げ、各人がそれぞれ主体的に真理なり、神的なものを求め、直にその求めているものから光明に与る時代、その秋を迎えているのではないでしょうか?!...
言い訳がましいですが、他に向けて何かを発信するということは、どうしてもそういうこともあるものでしょう。結論みたいなこと言わないと閉めらんないし...
でも、私は自由な精神で書かせてもらっているんだし、読み手の方もあまり言い回しに囚われないで、書かれたものはあくまで参考くらいにして、自由な精神でお付き合いしてくれたら、と思います。
その点宗教の世界などは、そういう自由な精神はあまり生かされないようで、信者はただ教師の言葉に追従、鵜呑みにしているだけで、ちっとも主体的に真理の探求などに関わることが出来ないようです。
だからか、私は宗教信者が光明を得たとか精神的に目覚めた、という話はほとんど聞いたことがありません。
それもそのはず、例えば”人間には肉体を超えた霊体というものがある、死後の世界がある、いくつもの霊界の段階がある、前世というものもある...”、という風に頭脳知による知識だけで、先入観、固定観念が精神を支配してしまい、旧い水でいっぱいの器には、新しい水が注がれないように、自分の思いを超えたものからの直接的な”超智”を受けることが出来ないからです。
あなた自身が、本当に直観智で、肉体を超えた霊なるものとの関わりや、自分が元々神的なものと一つのもの、ということを感じたのなら、それは多分受け入れるしかないでしょう。
ただ、私の感じでは、そういうものは、何かの景色を見ているように、思い描いたような言語表現は出来ないのが普通だと思います。
これが言い換えると、決めつけたように言うことは出来ないということであり、そして人の思いを超えているということなのです。
光明を得た、という高僧だとか、ヒンドゥー教の導師の弟子、キリスト教修道士とかは居ます。彼らは例外なく、宗教的なドグマなどから自由であり、主体的に探求に関わっていたはずです。
又、デキアイの宗教信者だった人間でも、光明を得る契機にそれらから自由になったという例もあるでしょう。それもどこかにそういうものを待ち望む心持ちがあったのでしょう。
私はもう正直、何かの比喩的、象徴的な表現ならいざ知らず、見えない世界のことを見てきたように、他に信じ込ませんとばかりに、決めつけたように語られる言葉は、生理的に受け付けないものを感じてなりません。
要するに、思い、為す人間は、すぐ短絡的に結論を求めようとするもので、精神世界という実証することの難しい分野にもそれを求めようとしますが、分からないものは分からないままでいいのです。分からないものを分かったように思い込み、信じ込むから妄信がはびこるのです。
分からなくても、直接感じていたらいい、そういうものを求めたらいいのです。
それは...そう、愛、平安...そういうものでしょう?
今は、教師と信者のデキアイの関係が支配する、宗教世界の時代は終わりを告げ、各人がそれぞれ主体的に真理なり、神的なものを求め、直にその求めているものから光明に与る時代、その秋を迎えているのではないでしょうか?!...