何度か触れているように、今の時代、期せずして悟り、覚醒体験に与る人が多くなっているのです。
理由はいくつかあるでしょうが、人類全体の思考機能が後退するか、変化が生じ、隠れていた純粋意識が顕わになって来た、ということではないかと思われます。
覚醒とは、直接的には純粋意識の目覚めということは言えるでしょう。
そんな訳で、何だか人類の目覚めの秋が来たかのような感もしないでもありません。
だからと言って、”今、覚醒しないでいつするのですか!”、などと、例の反面教師はそれを煽るようなことを平然と言っているのは、いささかズレているし、寒心に堪えない思いにもさせられるのです。
いつも言っているように、自分の思い、為すことからは決して覚醒の道は開かれないのです。
そのような思いに駆られるのは、エゴ.マインドでしかありません。
自分を超えたもの、神的なもの、その導きというものが疎かになるならば、自己は、その自我心しか無くなります。
その自我心がその限界あるままに、自己を超越しようと目論むことは、どこまでも自我の拡張、エゴの肥大でしかなく、狂気に陥るかして自滅の道を辿るしかありません。
そんなことが、人生の大輪の花を咲かせるとか、そのために生まれてきたかのように語れるものでしょうか?...こういう人間は決してシャカにはなれまい!、おシャカになるよりないでしょう。
といって、覚醒というものが、自分の思いを超えて、神の意識というか、純粋意識に目覚めることにあるということは、人生の大きなエポックとなるであろうことは言うまでもないことです。
それで、ここで私が言いたいことは、ただ覚醒剤を服用した時のような、魔境と隣り合わせにもなり得る覚醒体験それ自体を追い求めてはならない、ということなのです。
神の意識、純粋意識に目覚めるということは、もう説明がなされているようでもあるように、自分だけの自己で無しに、自分を超えたものに意識を向ける、祈ることと切り離してはあり得ないことなのです。
悟りとか覚醒というより、そのものとつながるということが本質的なことと言えるでしょう。
つまり、私的には、”私は、神と一つになるために生まれて来た!”、と言っても過言では無いのです。
”そんな神など居るかどうかワカランではないか!”、という向きも居られるでしょう?
いいや、私にとって神とは、もはや信じる、信じないの信仰の対象ではありません!
それなくして、私はここに存在出来ない!、生まれて来ることすら出来ないもの!...だからそう感じてしまうのは、けだし当然なことではないか!
神とは、本当の自己を成しているものです。それが示されずにどうして人生が立ち行くのであろうか!
覚醒とは、神の実現、真我の実現である!
だから、是非とも今生で与らねばならない!...いいや、そうじゃない!
与っていない、与って生まれて来ない人間など一人もいないのではないか?
私はああいう体験に与る前からそのことは示されていたのですよ!
それは、又目覚めてみて分かることではありますが...生まれた時から、いやその前から神とつながっていた!...それが人生の実相ではないか!
今生のことだけに囚われているのは、そう”思っている”人間しかいないのではないか?
今生の体験などに囚われてしまうと、それは泡のように元の黙阿弥になるのが必定でしょう。そうで無ければ魔境が待っている...ヘンな方に開かれないのが救いではないか?
だから、いつも神的なものに意識を向けていること、祈ることはそれの大きな防御にもなるし、なによりも、愛、安らぎに導かれることにつながります。
それは、まったく一時の体験というものを超えて、ずっと息づいているものなのです。
そして、このことに目覚めずして、どこに目覚めというものがあるだろうか!...
理由はいくつかあるでしょうが、人類全体の思考機能が後退するか、変化が生じ、隠れていた純粋意識が顕わになって来た、ということではないかと思われます。
覚醒とは、直接的には純粋意識の目覚めということは言えるでしょう。
そんな訳で、何だか人類の目覚めの秋が来たかのような感もしないでもありません。
だからと言って、”今、覚醒しないでいつするのですか!”、などと、例の反面教師はそれを煽るようなことを平然と言っているのは、いささかズレているし、寒心に堪えない思いにもさせられるのです。
いつも言っているように、自分の思い、為すことからは決して覚醒の道は開かれないのです。
そのような思いに駆られるのは、エゴ.マインドでしかありません。
自分を超えたもの、神的なもの、その導きというものが疎かになるならば、自己は、その自我心しか無くなります。
その自我心がその限界あるままに、自己を超越しようと目論むことは、どこまでも自我の拡張、エゴの肥大でしかなく、狂気に陥るかして自滅の道を辿るしかありません。
そんなことが、人生の大輪の花を咲かせるとか、そのために生まれてきたかのように語れるものでしょうか?...こういう人間は決してシャカにはなれまい!、おシャカになるよりないでしょう。
といって、覚醒というものが、自分の思いを超えて、神の意識というか、純粋意識に目覚めることにあるということは、人生の大きなエポックとなるであろうことは言うまでもないことです。
それで、ここで私が言いたいことは、ただ覚醒剤を服用した時のような、魔境と隣り合わせにもなり得る覚醒体験それ自体を追い求めてはならない、ということなのです。
神の意識、純粋意識に目覚めるということは、もう説明がなされているようでもあるように、自分だけの自己で無しに、自分を超えたものに意識を向ける、祈ることと切り離してはあり得ないことなのです。
悟りとか覚醒というより、そのものとつながるということが本質的なことと言えるでしょう。
つまり、私的には、”私は、神と一つになるために生まれて来た!”、と言っても過言では無いのです。
”そんな神など居るかどうかワカランではないか!”、という向きも居られるでしょう?
いいや、私にとって神とは、もはや信じる、信じないの信仰の対象ではありません!
それなくして、私はここに存在出来ない!、生まれて来ることすら出来ないもの!...だからそう感じてしまうのは、けだし当然なことではないか!
神とは、本当の自己を成しているものです。それが示されずにどうして人生が立ち行くのであろうか!
覚醒とは、神の実現、真我の実現である!
だから、是非とも今生で与らねばならない!...いいや、そうじゃない!
与っていない、与って生まれて来ない人間など一人もいないのではないか?
私はああいう体験に与る前からそのことは示されていたのですよ!
それは、又目覚めてみて分かることではありますが...生まれた時から、いやその前から神とつながっていた!...それが人生の実相ではないか!
今生のことだけに囚われているのは、そう”思っている”人間しかいないのではないか?
今生の体験などに囚われてしまうと、それは泡のように元の黙阿弥になるのが必定でしょう。そうで無ければ魔境が待っている...ヘンな方に開かれないのが救いではないか?
だから、いつも神的なものに意識を向けていること、祈ることはそれの大きな防御にもなるし、なによりも、愛、安らぎに導かれることにつながります。
それは、まったく一時の体験というものを超えて、ずっと息づいているものなのです。
そして、このことに目覚めずして、どこに目覚めというものがあるだろうか!...