人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現臨にある祈り

2024-09-18 09:28:45 | 祈りと瞑想
祈るということは、言うまでもなく神、仏、ある霊的存在、呼び名は何であれ、自分を超えたものに向けられるものです。
こんな当たり前のことなのに、何といいかげんな、おざなりなものになっていることでしょう!
多くの宗教では、祈りは習慣的な行事になっています。いや成り下がっていると言った方がいいでしょう。
こうなってしまう根本的要因は、その神的なものが本当に、リアルに現実に生きて働くものとして認識されていないからでしょう。
あるキリスト教系の集会で私は、このことを指摘したことがあります。”形式的に祈るので無しに、もっとアリアリと神、聖霊を意識して祈らなけなければならない!”、と。
すると、司会の方が、”もっと現実的なことを話してもらえませんか?”と言ったのには、呆れてしまいました。
そして私は、”神のことは現実的なことでは無いのか!”とやや激昂して、語気を強めて言ったら、”分かりました、分かりました...あなたの言われることも...でも、今はそういうことに触れている時間は無いので...”とはぐらかされてしまったのです。
私は、皆に悪いと思ってその場は引っ込んだのですが、”こんな集会などサッサと辞めろ!”、と叫びたい気持ちでいっぱいなのでした。
私がいつも神的な現臨について触れているのは、こうした思いから来るのに他なりません。神は、思い描いたり、漠然と観念的に信じるものでなく、現実に臨むものなんだ、と。
それは、自己実存とも切り離せないものであり、この現臨無くして、どこにリアルな現実などあり得ようか、と言ってもいいくらいのものなのです。
それは、意識を向けることで臨む...神的なものを意識する、向かわざるを得ない!...これは本当に神、自己の分離の無い在り方を示しています。
神的なものに向かうということは、主我的な思いから離れていることです。
つまり...私が居て、向こうに神を置いて祈るのではない。私が祈るのではない。
何時間祈るとか何年祈ったとか、私が祈って私がどうにかなったとかではない。あなたの思念、信念などの沙汰ではない。
私が考え、為したことは勿論、如何なる空想、妄想ごとなどそこに持ち込む余地などない!
現臨にある祈りの場には、神の現存と自己実存しかないのだから!
現実に臨む神に向き合わない祈りごと、否祈りの真似ごとなど何年やってても無駄なことです。
それが臨まなければ、何一つ始まってこないのですから!
私が悟る、空になる、何かの境地に達する...これらはどこまでも主我的な思いに過ぎません。
一コの自分がそうなろうとして、どうにもなりゃしないし、否どうにかなってしまうばかりではないか?...
”私ではない、あなただ!”
この主客の転換無しに、真の祈りは始まってこないでしょう!...





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