人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

あの日から始まった

2023-11-09 09:31:56 | 人生の教師
昭和52年の今頃の季節のことです。
私はある本を読んで思わず涙が溢れてきたのでした。
その年ぐらいから読書に目覚めて、以来実に多くの本を読んで来ましたが、そういうことは数回しかありません。移り気が激しい私でも、そのことは今でも忘れることは無いのです。
それは五井先生の「愛すること」(白光出版)という本でした。
とにかく、それを通して神は愛なのであることを知り、何よりも神を信じつつも恐れたりして、自分とかけ離れたもののように接するのでなく、親しみ、近しきものとして感じられるようになったことが実に、ホント~に大きいことなのです。
だから、このことが無ければ今の私は無いと言っても過言ではないのです。
それは、五井先生がどういう人であったとしても変わらないでしょう。
“先生は大きな教団の教祖であり、絶対視されていて、偶像のように祭り上げられている...”
そんなことは、初めてお目にかかった、その年の先生のお誕生祝賀会の時に既に感じていましたよ!
だけど、よくよく考えてみれば、先生の教えは“守護霊、守護神教”とも言われるように、我々を形ある導師でなく、“見えない導師“につなげることが主眼となっていたはずなのです。
そして私はそのように導かれたと言ってもいいのです。
これは一時は考えもしましたが、会員になることなく、あまり教団の醸し出す、あの集団的思念の影響を受けてこなかったことが大きかったようです。
いや、こう書いてきて感じることは、私は最初から(守護霊、守護神という表現はともかく)見えない導師の導きを受けていたのではないか、ということです。
それは、物心付いた時からとも言えるのですが、よりそのことがハッキリ意識づけられたのは、五井先生との縁を通してだったということでしょう。
どの教えに接しても、本質的なこととそうでないものとを見極めることが大切です。
しかし、自分で見極めることが難しいんですよね?
だから祈ることが大事なんです。迷い、本質的でないことは神の中に入れちゃえばいい!
又、“人間は本来神の子なんだ、迷いなんか無いんだ!“、なんて理想論みたいな教理を現実にそう思えないのに、無理に念じたりして思おう、信じようとする必要もありません。
祈る...意識が自然に神に向いてしまう、こっちで合わそうとするのでなく、自然に合わされてゆくだけ...そうすると、いつの間にか会い難きものに、会わされる!...かもしれない。...
と、こういう風に、私はいつの間にか、五井先生の教えの根っこにあるようなことに合わされて行ってしまったようなのです。
それは、みなあの日から始まったのかと思うと!...(ううう!)
私のような五井先生の無教会派の皆さんだけでなく、このように導かれた方は私だけではないはず!
非本質的な教団本位の在り方や、真偽の分からない陰謀論やオカルトに脱線する在り方などはもう消えてゆく姿の様を見せているだけです。
見える導師から見えない導師を通して神、真我につながる、という五井先生が残された本筋の道こそは、本当の意味で宗教宗派を超えて、息づいているのを感じずにおれません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間と怪物

2023-11-08 09:31:06 | 人生の教師
先日、 「ある日の五井先生」(清水勇著)という本を読んで、一寸イヤーな気分にさせられました。
ある日、人の過去世が分かるという、会の有力?な講師が「五井先生にも業がある、消えてゆく姿(過失や欠点)がある」と言っていたのが先生の耳に入り、その講師を叱責したというのです。それを又連帯責任があるのか、別の二人の有力な講師が謝っているのです(本人は謝らなかったとのこと)
誰にも業や消えてゆく姿の一つや二つはあるでしょう?、それもこれは常人の与りしれない過去世のことらしいのですよ。こういうことは、おそらく大きな教団の(神に等しき)教祖と講師との関係でなければ、さして問題にならないでしょう。
このことを知って、私は五井先生の“人間的な限界“を感じてならないのです。
いや、もしかして先生は本当に何の欠点も無い、完全なる超人なのかもしれないですよ!
この意味は、五井先生も世の常なる宗教の教祖たちと変わらない、(あまりにも人間的な)尊大な態度を見せることもあるのだ、ということなのです。先生はある講話の中で、そのふんぞり返った態度を見ると虫酸が走る、とか言っていたにも関わらず...
先生に業や消えてゆく姿があることがそんなにコケンに関わることなのでしょうか?
私には、宗教教団に纏わる思いのほとんどが消えてゆく姿に思えてなりません!
そこへ行くと、数多のその神に等しき教祖さんを輩出させた、新興宗教の大本、大本教の怪物と呼ばれた、出口王仁三郎聖師ときたら...接客に際し、素っ裸で現れることもあったとか。本心かポーズなのか分からないが、開けっぴろげの精神の表明なのでしょう。
又若気の至りのことだったとはいえ、過去の派手な女性遍歴のこととか、侠客との関係のこととかも隠さず公表していたのです。
聖師の飾らない、人との距離を感じさせない人柄は「出口王仁三郎と青年座談会」という本などで伺い知ることが出来ます。
これが怪物、日本の宗教史上きってのカリスマと言われた人物の裏の顔であり、いや本当の顔だったかも知れないのです。
この何とも人間臭い有り様が、何と人間離れしているように映ることか!...あの超然とした態度の生き神サマたちには誰もマネなど出来ないでしょう!(こう逆説的なこと書いてきて、ハテ人間とは?、人間らしい人間とは何か、テンデに分からなくなってきました!)
私はここで、“出口聖師と五井先生はどちらが人間として上か?“、な~んてことを言いたいんじゃありません。
その教え的な方でいくと、色々なハッタリとかカモフラージュなどが入り混じってるようで、ストレートに伝わってこない、聖師のものよりも、五井先生の方が分かりやすくス~っと入ってくるところがあります。
そして本来の五井先生は、あんな尊大なところは見せない人であろうことも何となく伝わります。
教団組織というものが人間を変えてしまうのか?、だからそんなものは消えて行ってしまえばいいのです!
いや、なんだかんだ言っても人間がやっていることなんだから!...
人間にはみんな限界があるってことなんでしょう!...あなたも私も人間、大先生も生き神サマも人間...だけどその人間には何かそれをぶっこえた、得たいの知れないものが隠れているらしい?
これが時たま顔を覗かすものだから、人間らしい人間のままで、怪物らしく見えるらしい...
いや、人間は何ともオモシロく、オソロシイものだ!...

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

認識と秘儀参入

2023-09-24 10:25:19 | 人生の教師
「我々が認識を霊的に理解するならば、認識とは、”それによって、又、そこにおいて、あるものを現実にもたらすはたらき”、ということが出来よう」
(ベルジャーエフ「人間の運命」/白水社刊)

昨日、ベルジャーエフの本を読み返していたら、前回の記事の内容のことを一言で言い表している、この文章に接して驚いてしまいました。
もっとも、ベルジャーエフならどの本を紐解いても、そういうことが書かれている、くらいのことは私の頭にもあるのですが、これは、”じっつに前記のことを代弁しているではないか!”、と感じ入った次第なのです。
この文章は、哲学的認識に関して述べられたものなのですが、我々はこの認識について、あまりにも皮相的な理解に留まっていると言えないでしょうか?
自分についての、他者についての、世界、歴史、あるいは神...それらを客観的対象にして、何かが分かったような気になったとしても、それは知的概念、抽象論として認識しているだけであって...と、このように文章が続けてられること自体が、正に皮相的な理解たる所以なのです。
一体そこで何を認識したと言えるのか!...主体となる私と対象が分離したままにあって...一番の欺瞞は、自己を客観的にして考える、所謂自己認識と言えるでしょう!
考えているだけのこと、そこから導き出せる如何なる見解も認識には到達出来ないのです。...これらの通弊を招いたものは、多く所謂”哲学的認識”、とされるものとは言えまいか?!
これに対してベルジャーエフの認識論は、「現実の存在は認識を通して照明を受ける...」というところから始まり、「私の存在の意味は私が私自身のうちに、則ち霊のうちに完全に入りこみ、客体が私にとって、全く存在しなくなった時初めて解明される」(上掲書)という具合に展開するのですが...(これが認識論なのか?、と驚嘆する思いと、先のこんなものが認識論なのか?という思いが私の中で裏表になっています)そこでは、自己と霊なるものとの交流が強調されているのです。
彼の多くの著書で、このような認識論をその導入部として、初めの方に位置づけているのですが...この認識が本当になされたのなら、あなたの人生はきっと一変するだろうと思いますよ!
しかし、それをどう読むかはあなたの自由です。
数多の所謂哲学的認識論として読むことも可能です。一風過激で変わった認識論の一つとして...
ただ書かれた言葉をなぞるだけで、見えない手によって、聖霊のバプテスマへと導く、秘儀参入としての按手礼みたいなものが行われる訳では無いですからね...
だが、あなたが本心から、本当の自分、自己を超えた霊なるものを望むのなら話は別です。
言葉、抽象概念を超えて、客観的知識ならぬ、あなた自身の内なるものを揺れ動かす、霊的媒体とならないとは限らないのです。少なくとも私は、そういう読書体験をしたことがあるのです。
本来の哲学的認識とは、自己実存を明らかにする、超越的な現存に与ることであったのです。
これは、正に秘儀参入の道と言っても過言ではありません。
ベルジャーエフは、それを哲学的表現の中に秘儀として隠していたようです。
何人が、その門を突き破って、人生の裏側へと足を踏み入れたかは知る由もありませんが!...
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

隠された祈りの道

2023-09-05 10:20:34 | 人生の教師
ある修行法によって道を求め続けてみても、何ら変化も恩恵も感じられない、という求道者もおられるでしょう。
大体、2.3年も経てば、ある程度の“メド“も立つものでしょう。
そのような状態が惰性のようになって、ズルズルと歩んでしまうほど人生において無駄なことはありません。
五井先生の白光会では、先生指導のテープを聴きながら、統一行をするというのが、主流の修行法らしいです。
私には、心地よさとかは感じるくらいで、音声として、どうしても外の方に意識が向けられてしまうせいか、それ以上に深くなったり、“何かが開かれる“感じがしてこないので、不向きに思えるのでした。第一あれは、所詮再生されたものであり、ライブなものではないではないか?
五井先生原理主義みたいな人は言うかも知れない...“五井先生の道の修行法はあれしかないのだ!“...そんなバカなことは無い!...先生自身がそう言ったか?...だから私は固く、狭い信仰者とは関わりたくないのです!
前にも書きましたが、これは、行法というものではないけれど、先生は至るところで、日常、恒常的に神に思いを向け、入れる、思いを常に神的なものに満たしておくことを説いていたのです。
これは、私は数ヶ月で身に付きました。そうしているうちに、何となく愛、平安に包まれる、これが大きいことなんです!...何か神秘的なこと、奇跡的なことを追い求めていたら気が付かないかもしれませんよ。
ただし、これも“世界平和の祈り“に則ったものじゃなかったですけどね!...“御心のままに“というようなニュアンスの...言葉を称えるのでなく、心に響かせるのです。とにかく、そのように転化しやすいものであれば、何でもいいのです。
ある意味で、これこそ超宗派的な祈りと言えるでしょう?
それが如何に広く、深いものであるか!...固く、狭い信仰者には絶対に分からないでしょう!
ずっと、“このやり方でなければ!“と囚われ続けている人が、結構著書の中に散見するにも拘わらず、この祈りの道を知らない、否知っていてもやろうとしないのは、実に勿体ない話ではありませんか?
この方法なき祈りは、その後現臨感覚の芽生える端緒となったものであり、今日も尚私の日常に生き続いているものなのです。
私が、このように容易く?こうした無為的な道に導かれたのは、既に他力的な祈りの道を受け入れやすい、心的土壌が多分あったからだと思います。
自分の無力さを知り、思考に囚われることの苦しみを味わってきたこと...それが種となり、思いを超えたものによって開かれることにつながっていったのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

消えてゆく姿と十字架

2023-08-29 09:48:47 | 人生の教師
五井先生の「質問ありませんか?」(白光出版)という、質疑応答を集めた著書の中に、「消えてゆく姿の教えとキリストの十字架の贖罪のこととが、ピッタリのように感じるのですが、先生のご意見を伺いたい...」という質問がありました。
私も以前から、これはピッタシだわ!、と感ずるものがあったのです。(実は消えてゆく姿の方はあまり理解してもおらず、そういう行もしてこなかったので、多く語る資格は無いのですが...)少なくとも、“ああ、思いは消えてゆく...“、という実感は何度も与ったことがあるのです。
もっとも、この質問者がどういう理由でピッタリと感じたのか、は分かりませんで、又それに対する先生の答を読んでも、あまりそこに通底しているものは伝わってきません。
というのも、先生のキリストの贖罪についての説明は、惨たらしい血の贖い、大犠牲...苦難を受け入れる、といった通り一辺のものの域を出ないものだったからです。
それでも先生は、「ハイ、同じものですよ」と言う...多分、その奥にあるものを感じていたのでしょう?
私は通説的な十字架の贖罪のことを理解したことも、受け入れたこともありません!
犠牲になれ?...“イヤ“です!、出来ません!...では“聖霊、神的な現臨を受けよ!“...ハイ!
何度も書いているように、このことは小池辰雄先生を通して“受けている“ことなのです。そういう教えを信じたり、行じたりしたということじゃないのです。
ただ受けること...そのキリストの十字架の故事を信じるということでもなく、苦難、犠牲になるということでもありません。
そういう観念的な思い、為そうとする思いを超えたものに与ることに他ならず、それが臨んだら受け入れるしかありません!
聖霊、神的な現臨の中にその思いを無化するハタラキがある...それを受けるために信じたり、行じたりする必要も本当は無いのです。
五井先生の消えてゆく姿には、どうもその“現実に臨むもの“の線は弱い感じがしますが、要するに“神が思いを消してゆく“、ということなのです。
消えてゆく姿の教えが生まれた背景になった、“人間は本来神の子、完全円満なのだ!“という「生長の家」などの教えでも、最近の“あなたという個人は居ない!“、という教えでも、アレコレ思っている自分が手放しでそんな教えを受け入れられる訳がありません。
そう観念的に信じるしかない!...自分はそうなった、出来るんだと!...どこまでも思っている自分が...“が“が抜けない!...しっかし、あの人のように、何十年も消えてゆく姿を行じていて、色んな妄想ごと、自分“が“悟る、という思いから抜けられないというのは、どういうことなのか?
大事なことは、旧態依然としたことを何回繰り返していても、ハッキリと思いを超えたものに出くわさないと、そういう契機は生まれないということです。
だから、どこまでも思いを消してゆくもの、神に思いを向け、入れていくことがあるだけなのではないか?
私には、これが消えてゆく姿の教えの根幹、命のように感じてならないのです!
そして、聖霊と一つの十字架を受け取って、キリストの根源現実に入ること...
ここで、私には二つはピッタリとなっているのは言うまでもありません!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする