人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

形無き神の仲立ち

2023-08-27 09:57:10 | 人生の教師
五井先生は、色々なところで、急を要するような時とか、いざとなったら、“五井先生を呼びなさい!“と説いていました。
これは、もう行法なんてもんじゃなく、“直ち“に何かとつながる(?)方法無き方法と言えるでしょう。
このことについて「生長の家」の谷口先生が、“人間は、本来神の子であることを悟らせないとならないのに、人間にすがらせているのは、本心開発を邪魔をしている!“、という意味の批判をしていました。
それに対して、五井先生は、“「五井先生」(以降、この表示は形を超えた五井先生の意味)というのは、肉体じゃないのです。神の表れなんだから、私が救ってあげます、呼べば(霊体?で)飛んで行きます、と言って何が悪いのか?“と答えていたのです。
率直に言って私は、五井先生の信者でないものが、そのような話を聞いたら、谷口先生のように、あれは本心開発でなく、教祖への依存信仰を助長させている、と感じても仕方ないように思います。これは、五井先生の縁者にしか通用しないと言わねばならないでしょう。
しかし、この「五井先生」の称名(いや称名すら超えたものでしょう?)には、その言葉だけからは、言葉では伝わらない、何か重要なことが抜け落ちているのを、私は感じているのです。
それは又、先生の教えの根幹とも関わるものでしょう。
それは、(肉体人間でない)神的なものに思いを向ける、預けるということです。
業的な思いから離れることは、自分からは為し得ないことであり、これは安易な依存とは違うだろうし、本心開発につながることでもあるでしょう。
だけど、多くの人には、神といっても漠然としていて掴みようのないものですね。
私が“現臨“と呼んでいる、霊なるものの臨在が感じられるのなら別ですよ!
そのために、イメージし易いもの、縁者には仮の表れとしての「五井先生」だったのでしょう。
これは、“「五井先生」というのは、皆さんの中に居るのですよ!“、という、ちょっとぶっ飛んだ先生の言葉からも伺えることが出来ます。
これは、キリスト教で、聖霊のハタラキ、臨在をキリスト.イエスに“見立てる“ことと原理は同じでしょう。
“イエスは、今もなお、生きてハタラキたもう!“ということは、霊的現臨にあってそう言えることなのです。
肝心なことは、自分の外に思い描いた像として、神もキリストも五井先生も留めていてはならないということです。
相対を超えた、形無き命との一体化が主眼とならなくてはなりません。そうであれば、そうした在り方は宗派を超えたものとなるでしょう。
又、いくら悟り、空観に達したといっても、人間は人間に変わりはないということも、この相対世界では事実でしょう。又多くの信者たちは、安易な依存信仰に走ってしまったことも!...そして又、これらのことが要因となって、先生の寿命を早めたことも!
イエス、ブッダ、ラマナ.マハルシ、出口王仁三郎師、そして五井先生...神と人との仲立ちと目される人物は、これまで沢山表れました。
教師なら誰もがそうした存在と呼ばれる訳ではないのです。これは、そうした存在に思いを向けると、それを超えたものに通りやすいものがある、という感じがどうもあるようなのです。(先の「五井先生」の話で何か掴めるでしょうか?)
しかし、その肉体的表れとしてのみの存在が、そういうものではないはずです。そういう観方は偶像崇拝につながるものです。
本当の意味の仲立ちとは、形無き命と一つとなり、我々を神へとつなぐものなのでしょう。

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十字架ー無と全託

2023-08-03 10:20:23 | 人生の教師
真摯に精神的な道を求めている人なら誰でも、自分の思いから離れること、無心になる、空の境地になる、といったことがそこに横たわる大きな関所のようにも大きな問題だ、ということはそれとなく知らされているでしょう。
そうして、修行なりに取り組んだりするのでしょうが、いつも言うように、中々自分からはそうならないという現実に突き当たってしまうのでしょう。そう思っている自分を超えられないのだから当然のことなのです。
私には元より、そうした自力修行の気根など無いので、心がそっちには向かなかった!、というより手島、小池両先生を通じて、聖霊による恩寵を受ける道があることを知らされていたのです。
とはいえ、私は実際に形の上では(短い間ですが)小池先生の門をくぐることになった訳ですが、先生の説かれる”キリスト道”に、キリスト教の枠を超えた、普遍的なものが志向されているのを感じつつも、どうしてもそこにキリスト教臭が払拭されないものも感じていて、一歩踏み切れないでいたのです。
それは、手島先生には見られないもので、先生の道のある意味で中核的な部分、”十字架”の教え(?)に表れていたと思います。いくら”教えでない道だ、告白だ!”と言ったって、それはキリスト教の教えではないか?...そうでなきゃ、何で十字架なのか?
確かに、小池先生は、他の、ほとんどのキリスト教の先生と同じように、十字架を贖罪論と結びつけて説いたこともありました。
正直、非キリスト者を自認していた?私には直接関わらないことであり、どうでもいいこと、無理に信じる必要のないものだったのです。
しかし!...私は何度でも告白しよう!...これは、受けなきゃ分からない!...これが内包しているものは、十字架という狭い、キリスト臭のする言葉に惑わされては、この普遍に開かれた教え、否それはいくら観念的に信じ込んでいても、”体受”しなければ明らかとならない”道”そのものだ、ということを!
十字架と聖霊は切り離すことは出来ない!...これは聖霊自体の、我々の思念を無化させるハタラキを伝えるものだったのです。実にそれは、”聖霊を受ける”という一言に集約されるものでしょう。
然るに、何故先生は、そこに十字架というものを強調されなければならなかったのでしょうか?
それは、ただ聖霊を受ける、ということの上に、何ものか...自分の観念、信念、力、意志的なものを付加するもの、恩寵にゆだね切ることの無い、ある傾向が見られたからではなかったか?
自分の思い、力を無化するハタラキの前には全託するしかない、そうならざるを得ないのです。
先生の説かれた十字架は、無と全託を象徴していた!...そのように感じてなりません。
それは、普遍的に神の道を象徴していると言っても過言ではないでしょう!
十字架にぶっつぶれなければ、神の道は開かれない!
象徴はそれ自体にトラワレることなく、如何ようにも表示され得るものですが、それが何を指し示し、内包し、そして体受するかどうかが肝心なのです。
聖霊、ダンマ、タオ...名称は何であれ、こちらがそれを得ようとしたり、なろうとする、出来そうにない道でなく、そのものがこちらを無にして、通ってゆく道は万人に開かれている道なのです。
十字架の道は、全くキリストキリスト教の枠を超えているもの...小池先生を思う度にこの真理が表に顕わにならんことを願わされるのです...。



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現臨の執りなし

2023-08-02 10:16:26 | 人生の教師
「説明はもうやめます。一人ひとりが聖霊を受けることです! 私のような卑しく罪深い者にさえも、神様は聖霊を注ぎたもうたのですから、ましてや皆様には注がれるに違いない」
(手島郁郎「ヨハネ伝講話第二巻」/手島郁郎文庫)

現臨という言葉は、神の、キリストの、聖霊の現臨、という風に表現されるように、主としてキリスト教で使われているものから借りているのです。”現存”という言葉でもいいでしょう。
英語では”presence(プレゼンス)”。
ああ、もうこの響きが伝わるだけで、その現実に入れられてしまう!...祈入(小池辰雄)
現実に現臨、現存しなければ、神もキリストも如来も抽象的に対象化されて信じ仰ぐだけのものになってしまいます。
え、聖書の神ならともかく、天照大神や阿弥陀如来もか?...そうです!
だから、いくらキリストは神の独り子、救世主で、このものを信じないと救われない、と観念的に信じてたってしょうがない!、とそう言っているんですよ!
教会では、”イエス.キリストは今も生きたもう!”と説かれています。
それは、現実在らしめるものなのだから当然のことです。キリストのみならず、こちらも!
現臨にあって、そう言い表すことが出来るのです。
それは教理のことじゃない、何を信じるかということじゃない!...現に受けるかどうかが、又受けるということは一如になるということ、それが問題なのです!

手島郁郎先生や小池辰雄先生の講話などに接していつも感じさせられることは、先生たちは、この場合は勿論、キリスト教的に聖霊のことですが、この現臨の執りなしをされていた、ということです。
手島先生などは、カリスマ的な資質を持っておられて、お弟子さんたちには、絶対服従を強いるようなところもあったようですが、それも聖霊の執り成しというものあってのものだったでしょう。
小池先生の方はもっと身近に接する機会がありましたが、やはり”先生!”と慕われる存在ではありました。
それは、宗教的な集まりでは特に珍しいことではありません。
しかし、両先生とも”このことを欠いてしまったら、一体何の集会か!”と力を注いでいたのは、この聖霊の執りなしにあったに違いありません。
これは、やはりその主要な活動の一環だった、文書、著書の発行でも同じことが言えるでしょう。(本を読んだだけで、聖霊の現臨に与れるのか?...あるだろう!...少なくとも私はその片鱗に触れたことがあると言っていいでしょう)
先生方は、そのように尊称され、その教えを玉条の如く崇められることを本意にしていたでしょうか?
小池先生からは、”私が語るのは教えではない!、告白だ!”という言葉を何度も聞きました。
先生存命の頃はどう違うのかよく分かりませんでしたが...
こうして、不肖私自身がいつも現臨について生意気にも書いていて...いやもう、先生方はこれを!、この言葉に言い表せないこの現実を伝えようとされていたのだなあ、と感じさせるものを覚えています。
先生、教えと言われているものの、向こうにあるものを受け取らなければ、それは本当に今も生きたものにはならないでしょう!
それが現臨にある、ということなのだから!...


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人生の結節点

2023-05-07 10:02:31 | 人生の教師
私は平成12年から2年ほど、チョイチョイいじっている(?)反面教師のT画伯が主宰していた、五井先生関係の一寸した集会に関係していました。
これは、その少し前に知り合ったFさんに誘われてのことだったのですが、平成14年の年頭の集会で、その年の抱負を披瀝しあうということになって、Fさんは、”かくかく”と言いました。
しばらく後の集会で私はFさんに、”あなたの今年の抱負何を語ったか覚えてますか?”と訊いたのですが、彼はすっかり忘れていました。
しかし、私はしっかり覚えていたのです。今でも忘れていません!
確か、”今年こそ、守護霊、守護神の存在をアリアリと実感したい!”、ということでした。その守護の云々という呼称はともかく、それは宗教的な道の根幹に関わる重要なことだったからです!
これは私的には、”神的な現臨にある意識状態”のことと思ってほぼ間違いないでしょう?
ということはFさんは、私より長く五井先生を信奉していながら、そういうものに与っていなかった、ということなのでしょう?
私がそのこと自体をとやかく言うことは筋の違うことです。それは全くもって、個人の力でどうなるものでもない、神的なものあっての問題、言わば一人一人の宗教的機縁の問題だからです。
ただ、私がT画伯共々言いたくなることは、別のところにあるのです。
何故、Fさんはいつもやれ、”狩りなどで無益な殺生をしていると地獄へ落ちる!”、だの”病院には幽界の生物(動物霊、邪霊?)がうようよ!”とか幽界的、地獄的想念に囚われ続けているのか?、ということなのです。
これは特にFさんに言えることなのですが、どうも同じくベテラン信奉者である、T画伯に同じような陰謀論ネタを提供していたのも彼らしいのです。
五井先生は、陰謀論はともかく、時折幽界的なネタについて語っていたのは確かなことですが、何が本質的なこと、重要なことで、何がそうでないか、本心を開くとはどういうことで、消えてゆく姿とはどういうことか?、ということは見極められないのでしょうか?
それとも、それは前世の因縁の問題ですか?
いやいや、五井先生は常々思いは祈りをもって、神の中に投げ入れる、いつも神への思いで満たしておくことの大切さを説いていたのではなかったのか?!
だから、”無駄に長く一体何やってんだ!”、と言いたいのです!
真摯に、真っ直ぐ神に思い、意識を向け続けているならば、神の方から手を差し伸べて来る...これは私も少しく経験していることです。
五井先生は、言葉では聖霊だとか、神的な現臨のことは説かれませんでしたが、”響きに包まれる”、とかそういう風に言い表していました。
実にこのものにあって、幽界とか闇の勢力とか”将来、人類の多数は淘汰される”、とか諸々の業想念を解き放つ道が開かれるのです。
それは、常にそのことを意識していることで自ずと分かって来るでしょう。常に!
何故一ヶ月後、一週間後、一時間後には、そのことはどっかへ行ってしまい、又諸々の思いに引っかかってしまうのだろうか?
人生の重要な節目、結節点というのは、自分の本心から感じたことをずっと覚えているか、忘れてしまうかで決まるのでしょう!
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予言、流言に迷うな!

2023-05-06 09:58:15 | 人生の教師
石川、能登で震度6強の地震!
自分の居住地で起これば勿論のこと、こうした報道に接する度に、私にはとっさに”世界平和の祈り”が出てしまいます。
表向きにはそれから離れていた時期も長くありましたが、なんだかんだ言って、私には五井先生の残された道が根付いているのかな、と感じています。
以前に、あの祈りは、”ダイレクトに神的なものにつながるには適していない”、みたいなことも書いたりしましたが、”それはそれ”、そういう祈りが出るのも自然なことでしょう。
ああいう事象にあって、”恐れてはいけない、不動心を持て!”、何ていうのは無理な話ですが、だからこそ、祈る必要があるのです。何よりも安らぎを得られるのですから...
五井先生には、そのように、恐れる思いから離させる、という意図がはっきりありました。
近未来に大地震が起こるとか、理想天国のような世界が開かれる前に大天変地異が起こる、何ていう予言も断固として先生は否定していました。
しかしながら、表向き五井先生の道を継承しているかのような装いを持ったカルト的な一派では強固にそうした終末予言が信じられているのです!
未来のことなんか、一分先のことだって確かなことは分かりませんよ!
だけど、これだけは言える!...阿鼻叫喚の地獄の様態が来るのを信じ込むことは、地獄的想念に囚われているのだ、と。
何と五井先生の心とかけ離れていることか!...予言と結び付いて知られている「日月神示」でも、終末予言に囚われるのは、魔に通じている、と示されているではないか!
これ、そのカルトで同じように信じられている、陰謀論に絡めた、フリーメーソンだか陰始だかの”闇の勢力”への”熱心な信仰”にも伺うことが出来ます。
もっとも私自身は、陰謀自体は否定していません。多くの人たちにも多分、この国にも、世界にも薄気味悪いものが取り巻いているであろうことは、何となく感じていることでしょう。
私はただ、マヌケな(確かな根拠など全く抜けた、それについて考えようともしない子供じみた)陰謀論を否定しているのです。
しかし、もっとも肝心なことは、未来の予言、否流言と同じく、自己の深いところでどこに意識が向けられているか、ということではないでしょうか?!
天災も、魔の暗躍もあるかもしれません。
しかし、それも自己の内奥に息づくものに照らせば、その恐れも疑心暗鬼の思いも、移ろいゆく表層部分でのこと、ということになるでしょう。
これも、五井先生は消えてゆく姿として説いていたことです。
私は手放しで、”それは消えているのです!”、ということは言えませんが、少なくとも地獄的想念からは離れることは出来ます。
あなたの本心は何を望んでいるのか、何を信じているのか?...
祈りを通して、あなた自身に尋ねてみて下さい!

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