人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人を殺して何故悪いのか?

2024-03-24 09:37:22 | 雑感
五木寛之先生は、随所で現代の知性の偏重により、感情、感性が蔑ろにされることから起こる歪みについて言及されています。
少し前、“人を殺して何故悪いのか?“、といった議論が巷で話題になったことがありました。
そこで、何か結論らしきものが導き出されたのか、どうかは分かりませんが、結論というもの自体がそうであるように、このことが考えることで決着されてしまうようになってしまうならば、もう人間は落ちるところに落ちてしまうより仕方なくなるでしょう。
又、こういうことが一般論として通用してしまうようなら、その社会も先が見えているではありませんか? 
これが議論されて、話題になることそのものが、その知性偏重の歪みを浮き彫りにしているように思えてなりません。
このことは、一人一人の現実に向き合わなければ、絶対に何も分からないでしょう。
あなたは、リアルにその状況を思い描いて、現実にその手で平然と人をアヤめることが出来るのか?...こう問われれば答は自明ではないか?
そりゃあ、誰だって一瞬、カッとなったら分からないけど、躊躇するものは感じるでしょう。
それは多くの場合、法に触れる、その裁きを受けることが頭に過るからでしょう。もうほとんどこれは刷り込まれていると言ってもいい。
でも、それだけでしょうか?
私は夢の中で、妙な言い方ですが、実にリアルなシチュエーションの下で、先のようにカッとなって、人を殺してしまったことがあるのです。
最初に過ったのは、やはりと言うか、“ヤバイ、見つかる、つかまる、何とかしなきゃ!“、というものなのでした。
しかし、いくらか気分が落ち着いて、自分自身に帰って、その目の前に無残に横たわる亡骸を目にして...
これは、もう自責の念といったものでは説明の付かない、全身全心全霊を覆うような、自責の感情は勿論、悲しみ、哀れみ...それはもう、こちらの思いを超えたものから来るようなものとしか言いようのない感覚だったのです。
言うなれば、それはあの愛、安らぎと隣り合わせのようなものです。
“ああ、私はあの掛け替えのないものに手をかけてしまったのだ!“...
この感情、感覚はまったく思いも寄らないものだったのです。
これは、考えること、抽象論なんかでは絶対に、永久に分からないものなのです!
このように、人間の行動を決定づけるものは、言うまでもなく、考えて得た結論なんかでは無いのですよ!
何で頭で分かっただけのことで、人生が左右されなきゃならんのか?
頭は頷いても、身が、全心身が頷かずしては!...
人生の一大事のことは、あなたが思い、考えているものからは答は見つからないでしょう。自分の思いを超えたものに聞かなければ!
その答はあなたの頭でなく、胸にあるのでしょう?...



コメント (1)
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