知ったことは、行いとして表さなければならない、と昔から世の中では言われたりします。誰かから圧を受けているように!...
中国の陽明学では、これに関連して”知行合一”と説いていました。
要するに、頭で考え、知ったりしていても何にもならないのだから、行わなければならないのだ、と。
しかし、何でも行動すればいいということにはならないですよ。
例の反面教師のように、”あ、やっちゃった!、軽はずみで不適切なこと書いちゃった!、削除しなきゃ!”、なんてのは、やらなければよかった、ってことになるじゃないですか?
こういうことは、考えることと行うこと(これ自体”行動パターン”として認識されているくらい、行動というものが重要視されているようであるが)しか認識されていない、世の中の人間の在り方に基づいた例と言えるでしょう。
ここには、いつも言うように、人間の在り方ということなら、もっとそれに直結した、根本的な意識的な在り方というものが蔑ろにされているのです。
例えば、幸福について考えるだけだったら、そう考えるだけですね。(ヘンな言い方ですが)
だから、それを得んがために何かをやろうとします。しかし、やんなきゃよかった、ってことになるかもしれないのです。
しかし又、考えなくても、行わなくても意識レベルで幸福に与っちゃったらどうしますか?
何かやり間違いにつながるような行動に移さなければならないでしょうか?
これは、自己の在り方として、既に決定されてしまっているのです。それは自分の意志を超えたところで、ということなのですが...
だから、考えなくても分かるではないか?...”幸福に与って在ること”が肝心なことなんだから、寝てようと、何かを始めようとどちらでもいいのです。
そんなことより、人間は何をしようかと考える、それを実行に移すことでなくとも、無意味でも何でも、何かをやっているものなのです。
意識的なことというのは、そういうあらゆる人間の在り方のベースとなるものなのであり、そこには、思考と行動という二元性は無く、その基層にあって統合されていると言えるでしょう。
つまり、意識レベルで幸福に感じているのなら、それについて考えているだけでも幸福なはずなんです。(皆さんもそういう経験あるでしょ?)
しかし、大体において、幸福に感じているのなら、ジッとしていられなくなるのが普通で、そうなると、何をやっても幸福なはずです。(でしょ?)
こうなると、”何かをやらなければならない”、なんて何かに縛られるような思いなどしなくても済むのです。(要するに思いの縛りから自由なことが幸福なことなんだ!)
先の陽明学の”知行合一”なんかは、(よく知らんけど)おそらくこういうことを言っているのではないかと思われます。
昔はとにかく、この意識のことは、よく知られてなくて、心とか精神のこととか、思考とごっちゃに理解されていたようです。
意識的なことは、在り方と直結していると言いました。だから、あなたが意識していることは、まんまあなたを映し出していると言ってもいいのです。(陽明学はこれを言っているのは確かなことです)
どうして、私は今日もこういうことを書いているのか?、んなことは分かりきったことではないか!
書いちゃうんだからしょうがない!...意識的なことは、”ねばならない”ことじゃなく”やらざるを得ない”、書かざるを得ないことなのです!...
中国の陽明学では、これに関連して”知行合一”と説いていました。
要するに、頭で考え、知ったりしていても何にもならないのだから、行わなければならないのだ、と。
しかし、何でも行動すればいいということにはならないですよ。
例の反面教師のように、”あ、やっちゃった!、軽はずみで不適切なこと書いちゃった!、削除しなきゃ!”、なんてのは、やらなければよかった、ってことになるじゃないですか?
こういうことは、考えることと行うこと(これ自体”行動パターン”として認識されているくらい、行動というものが重要視されているようであるが)しか認識されていない、世の中の人間の在り方に基づいた例と言えるでしょう。
ここには、いつも言うように、人間の在り方ということなら、もっとそれに直結した、根本的な意識的な在り方というものが蔑ろにされているのです。
例えば、幸福について考えるだけだったら、そう考えるだけですね。(ヘンな言い方ですが)
だから、それを得んがために何かをやろうとします。しかし、やんなきゃよかった、ってことになるかもしれないのです。
しかし又、考えなくても、行わなくても意識レベルで幸福に与っちゃったらどうしますか?
何かやり間違いにつながるような行動に移さなければならないでしょうか?
これは、自己の在り方として、既に決定されてしまっているのです。それは自分の意志を超えたところで、ということなのですが...
だから、考えなくても分かるではないか?...”幸福に与って在ること”が肝心なことなんだから、寝てようと、何かを始めようとどちらでもいいのです。
そんなことより、人間は何をしようかと考える、それを実行に移すことでなくとも、無意味でも何でも、何かをやっているものなのです。
意識的なことというのは、そういうあらゆる人間の在り方のベースとなるものなのであり、そこには、思考と行動という二元性は無く、その基層にあって統合されていると言えるでしょう。
つまり、意識レベルで幸福に感じているのなら、それについて考えているだけでも幸福なはずなんです。(皆さんもそういう経験あるでしょ?)
しかし、大体において、幸福に感じているのなら、ジッとしていられなくなるのが普通で、そうなると、何をやっても幸福なはずです。(でしょ?)
こうなると、”何かをやらなければならない”、なんて何かに縛られるような思いなどしなくても済むのです。(要するに思いの縛りから自由なことが幸福なことなんだ!)
先の陽明学の”知行合一”なんかは、(よく知らんけど)おそらくこういうことを言っているのではないかと思われます。
昔はとにかく、この意識のことは、よく知られてなくて、心とか精神のこととか、思考とごっちゃに理解されていたようです。
意識的なことは、在り方と直結していると言いました。だから、あなたが意識していることは、まんまあなたを映し出していると言ってもいいのです。(陽明学はこれを言っているのは確かなことです)
どうして、私は今日もこういうことを書いているのか?、んなことは分かりきったことではないか!
書いちゃうんだからしょうがない!...意識的なことは、”ねばならない”ことじゃなく”やらざるを得ない”、書かざるを得ないことなのです!...