私のことをよく知っている人は、前回のように、“あることに共鳴したかと思ったら、節を変えて別のものに共鳴したりして、心を分裂させて何してんのか分からないではないか!“、などと言っていることに対して、“コイツ、どの口からそう言えるのか“、と思うかもしれません。
そうです、求道の初期の頃は、ある先生に共鳴したかと思ったら、次から次へと別の先生に共鳴したりすることを繰り返して来たのです。
例えば、白光会で、信者が五井先生の教義の言葉に囚われている有り様を見て、“あんなコチコチになんかなりたかないな!“、と感じているところに、手島郁郎先生のことを知り、その書き物で「教義なんかで人が救われるものか!、神、キリストの生命に触れて救われるのだ!」と言っているのを読んで、“あっ、これは本当だなあ!“、と思えるのです。ホントにそう思える、感じるんだから仕方ありません。
その後も小池辰雄先生を知り、又書き物を通して「キリストの霊性にあって、私は何ものでもありません。主義も信仰も捨てました!」と叫ぶように記されているのに触れ、“あっ、これこそはホンモノだなあ“、と魂が震えるような感動を覚えるのでした。ホントですよ!
何でホントと言えるのか?...今でもそう感じているからです。来ては去ってゆくような、その時々の感情の表れでは無いのです。
五井先生にしても、私はその、「神は愛なのです。神を本当に信愛しているものを神がほっておく訳が無いのです」という言葉に深く共感、共鳴したのです。
ずっと、このブログを読まれている方ならお分かりのように、こういうことは、ある先生から別の先生へと次々に節を変えて、乗り換えてゆく、浮気性のようなことを言っているのでは無いのです。あれもホント、これもホント、ホントなんだから仕方無い!
自分の本心にはウソはつけない!
アカの他人の出る幕は無い!
そこを例えば、“あの先生が言っていることは素晴らしいけど、私にはこの先生に義理があるから...“、なんていうのは、もう心が分裂しているのですよ。ホントにそう感じたのならそれを受け入れるっきゃない、というのが分裂の無い在り方なのです。
これは私の場合、それ以前に一度もそこで共感、共鳴することの無かった、教条主義的な宗教団体でその信者生活をしていることに苦しみを感じ、それが崩壊して消えてしまったという経緯かあるから言えることなので、誰にも当てはまるものでないのは言うまでもありません。
ただ、どの場合でも自分の心の底から感じたものは受け入れるっきゃないない、本心に誤魔化は通用しないですよ!...ギリだとか、メンツだとかホント、おつかれさんだわ!
一度そういうことがあると、何か私の内奥に共鳴盤のようなものが形成されるらしく、それにビシッと張り付いたようなものは、消えてゆかないのでしょう。
又、前回の話じゃないけど、昔私も五井先生には、霊界情報だとか、予言のこととかのことがあまり説かれていないのを物足りないと思ったこともあるのです。
でも、そこで知り得た知的好奇心を満足させるだけの知識など何にも残って無いですよ。これは、その共鳴盤からは浮いているものなので、どっかへ行ってしまったということなのです。
それと、決定的だったことは、何度も書いているように、その興味本位の求道によって、カルト団体に接近してしまい精神的に実に恐ろしい目に遭わされたことが免疫のようになったのです。
それが又、あの天来の一撃によって、神の臨在というものを覚えることになったのでしたが、本格的に、“これはホントだ!“、というものに出会うようになったのはそれからのことなのでした。
それは、どの“見える“導師からと言うより、見えざる導師の導きなのでしょう。
そうです、求道の初期の頃は、ある先生に共鳴したかと思ったら、次から次へと別の先生に共鳴したりすることを繰り返して来たのです。
例えば、白光会で、信者が五井先生の教義の言葉に囚われている有り様を見て、“あんなコチコチになんかなりたかないな!“、と感じているところに、手島郁郎先生のことを知り、その書き物で「教義なんかで人が救われるものか!、神、キリストの生命に触れて救われるのだ!」と言っているのを読んで、“あっ、これは本当だなあ!“、と思えるのです。ホントにそう思える、感じるんだから仕方ありません。
その後も小池辰雄先生を知り、又書き物を通して「キリストの霊性にあって、私は何ものでもありません。主義も信仰も捨てました!」と叫ぶように記されているのに触れ、“あっ、これこそはホンモノだなあ“、と魂が震えるような感動を覚えるのでした。ホントですよ!
何でホントと言えるのか?...今でもそう感じているからです。来ては去ってゆくような、その時々の感情の表れでは無いのです。
五井先生にしても、私はその、「神は愛なのです。神を本当に信愛しているものを神がほっておく訳が無いのです」という言葉に深く共感、共鳴したのです。
ずっと、このブログを読まれている方ならお分かりのように、こういうことは、ある先生から別の先生へと次々に節を変えて、乗り換えてゆく、浮気性のようなことを言っているのでは無いのです。あれもホント、これもホント、ホントなんだから仕方無い!
自分の本心にはウソはつけない!
アカの他人の出る幕は無い!
そこを例えば、“あの先生が言っていることは素晴らしいけど、私にはこの先生に義理があるから...“、なんていうのは、もう心が分裂しているのですよ。ホントにそう感じたのならそれを受け入れるっきゃない、というのが分裂の無い在り方なのです。
これは私の場合、それ以前に一度もそこで共感、共鳴することの無かった、教条主義的な宗教団体でその信者生活をしていることに苦しみを感じ、それが崩壊して消えてしまったという経緯かあるから言えることなので、誰にも当てはまるものでないのは言うまでもありません。
ただ、どの場合でも自分の心の底から感じたものは受け入れるっきゃないない、本心に誤魔化は通用しないですよ!...ギリだとか、メンツだとかホント、おつかれさんだわ!
一度そういうことがあると、何か私の内奥に共鳴盤のようなものが形成されるらしく、それにビシッと張り付いたようなものは、消えてゆかないのでしょう。
又、前回の話じゃないけど、昔私も五井先生には、霊界情報だとか、予言のこととかのことがあまり説かれていないのを物足りないと思ったこともあるのです。
でも、そこで知り得た知的好奇心を満足させるだけの知識など何にも残って無いですよ。これは、その共鳴盤からは浮いているものなので、どっかへ行ってしまったということなのです。
それと、決定的だったことは、何度も書いているように、その興味本位の求道によって、カルト団体に接近してしまい精神的に実に恐ろしい目に遭わされたことが免疫のようになったのです。
それが又、あの天来の一撃によって、神の臨在というものを覚えることになったのでしたが、本格的に、“これはホントだ!“、というものに出会うようになったのはそれからのことなのでした。
それは、どの“見える“導師からと言うより、見えざる導師の導きなのでしょう。