人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

生ける真なるもの

2024-12-18 09:34:11 | 覚醒
「真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ伝第八章)

私は長い間、この聖句についてどうもピンと来ないものを感じていました。
真理を知ったからといって、そんなに自由になれるものなのか?、ちょっと抽象的では無いのか?、と。
それが最近、手島郁郎先生の最晩年の聖書講話「ヨハネ伝講話第三巻」(手島郁郎文庫刊)を読んで、“なるほど!“、と開眼される思いにさせられたのでした。
それによると、この真理とあるのは、ギリシア語の“アレーセイア“の訳で、“理“という意味合いよりも“隠されていない、アリアリとした、根底的な、疑うことの出来ない“真“、生きた真なるものというものを言い表しているとのことです。
何か対象的に向こうにあるような真理を追い求め、得ようとするよりも、生ける真の方が実存に切り込んで来て、顕わになるようなことを伝えているのです。
真にそれは、「“真理“を知るではありません。“真“を知るです」(同書)
これはもう、覚醒、悟りというか、エンライトメントに与るような状況を物語るものと言えるでしょう。
真にそれは、我々に自由を得させるものでしょう。
自由...それは、この世の諸々の縛り、思い込み、何よりも我々の自我性からの自由であろう!
真に、悟り、エンライトメントというものは、自分の思い、力に依るものでは無く、生ける真なるものにあって、それに与ることそのもののことであるのです。
アリアリとした、根底的な真なるものを真向かいにして、我々もどんな包み隠し、はからい、誤魔化しも無く、真の姿に在らしめられざるを得なくなる...それは真にありのままの自分、隠しようの無い自分で無くて何であろう!
如何なる覆いも無しに、ありのまま、映し出されるままであることは、どんなに自由で、幸福なことであることか!
これ、自分を常に正しくあろうと、進んだ、高きにあろうと、そう、悟ったつもりになろうと、自分を偽り、取り繕うとしている人間には、絶対に、永久に分からないことでしょう。
そういう人間は、悟り、真にあることとは、全く程遠いものであることを知らねばなりません!
一コの人間が、修行などを重ね、努力した末に真我になるのでは無い!
よく考えてみたら、感じてみたら分かるではありませんか?
誰が真我になると言うのか?
本当の自分とは、いつも自分を偽って生きている人間がいつも背を向けて、向き合おうとしない自分のことに他ならないのです。それは神の真に向き合うことと同じでしょう。
それは、生ける真なるものと離れてあるのでは無い!
そして、それは寸時も離れてはいないのでは無いでしょうか?...
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