人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

超越と場所

2024-12-20 09:08:13 | スピリチュアル
私はいつも思いを超えるとか、超えたもののことを口癖のように言っていますが、ともすれば、例えば、“私は常人を超えた高いレベルに達した“、などと増上慢に囚われてしまう方に勘違いしてしまう人も中には居るかもしれません。
こういう思いというのは、自我心なのであって、ちっともその思いを超えていないということを知らねばなりません。
いつも重きをおいていることは、思いを超えたもの、神的なものの方であり、それ無しには、超えられないということなのです。
このことは、今の自分を超える、上に超える、縦に超えるようなイメージよりも、横に、空間的に超えるようなイメージのことを言っている場合が多いのです。イメージというより、そういうものを感じて言っているのですが...
これが、私は“一個の自分だけで成っているのではなく、自分を超えたものと共に成っている“、ということを感じさせるものに他ならないのです。
これは、西田哲学で説かれる、“場所“というものに通じるものであり、一個の自分を超えた空間、意識的なスペースのことを伝えているのです。
よく考えて、感じてみて下さい。考えている自分しか無いとして、思考に囚われ、がんじがらめ状態に陥っていたとしたら、このことがどんなに救いとなることでしょうか!
思いを超え、それから離れるということは、そうなってしまう自分を超えた場所があるということなのです。
そしてその空間には、思いを超えたもの、神的なものが臨み、満たしているのです。
神が現臨する場所がある。それがこの場所を生み出しているのです。
これに関して、五井先生などは、“諸々の思いは、神の中に投げ入れたらいい“、とか説かれるのですが、かつての私は、考えている私しか感じられなかったからか、そういう投げ入れる場所が分からなかったものです(笑)。
神に自分を投げ出す?...どうやって?
いや、どうやるもこうやるも無い!...もう投げ出されているではないか!
直立不動の姿勢でも投げ出されてますよ!(ま、ジッとしておれなくなるのが普通なんですが...)
そういう場所があるから投げ入れ、投げ出し、場合によっては、ぶっ倒れることが出来るのです!...これ、すべて“超えたもの“あってなされるものであるのは言うまでもありません。
自分を超えた場所があることは、何と救いであり、自由、幸福なことなのでしょう!
五井先生が言うように、祈りによって、投げ入れる、投げ出すという場所が生まれるのは確かなことでしょう。
加えて私はどうもここで、口癖のように、思いを超えるとか、意識を向けるとか、場所を想起させるようなことをテキトーに書いている内に、いつの間にかこんな感じになってしまったようなんであります。
コメント
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