人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

唯一無二の、普遍的な道

2025-01-12 07:15:13 | 祈りと瞑想
ラマナ.マハルシは、真我に目覚める方法として、“私は誰か?“と自分に尋ねてゆく、というジニャーニ.ヨガ(知識の道)に通じるような瞑想を伝えていたことはよく知られています。
これは、以前にも書いたように、私にはどうしても馴染むことは出来なかったのでした。
私は誰かと尋ねるのは、言うまでもなく考える私、自我です。
普通は、“私は肉体ではない、考える、思考と同一化した私ではない“、と否定してゆくような在り様になるものですが、どうしても“そう尋ねている私が居座り続ける感じがしてしまうのです。中々思いを超えたものが通る、それに開かれる感じにならないのです。
それが直接的な方法であると言うが、私にはそれほど直接的には感じません。
ラマナは、もう一つその自分を神的なものにゆだね、明け渡してゆく、バクティヨガ(帰依の道)のような方法を奨励していたのですが、これは普通に祈り、全託の道そのものと言ってもよく、すんなり入ってゆけるのです。
しかし、どうしても私には、ラマナが先のそういう意志想念を用いる方法を説いていたようには思えないのでした。
そこに、電撃的に突如あることが閃いたのは、ようやく二年ちょっと前のことです。
それは、ついこないだのように、風邪をこじらせたのが原因からか、あの神的な現臨が感じられなくなった時で、私はただ祈り、待ち望むしかなかったのでしたが、その回路が再び開かれ、臨んだと同時にそれは感得されたのです。
それは、神的なものに意識が向けられることと同じように、私自身に、“私は在る“ことに意識が向けられたということに他なりません。
考えている私、意志想念に頼る私は、ほんの端緒となるだけで、直ちに超えられてしまうのです。これは、直接的でなくてなんであろう!...
もはや、そこにはジニャーニ.ヨガとバクティ.ヨガの二つは無い!...否、こちらがやろうとする方法というものも本当は無いのではないか?
そして、神的なものと真我的なものは、切り離されるものでは無いということがハッキリ示されたのです。
ラマナは、おそらく彼のもとに訪ねて来る多くのヨガの修行者に譲歩して、彼らに馴染みのある、その二つのヨガの方法に則った道を説いていたのでしょう。
その根本には、思いを超えた、無為的なハタラキがあるということなのです。
“私は誰か“、と自我の私が自分に尋ねてゆく、というよりも“私は在る“というその状態に意識を向けてみるのです。
すると、私は一コの私では無く、“私を超えたものによって在らしめられている“ことが直感されるはずです。それは、神に意識を向けられることにより、自己実存が直感されることと一つ、ということなのです。
どうか、このことは言葉、概念のみで理解しようとしないで下さい!
神、真我に目覚める瞑想、祈りのことを言っているのですから!
いや、だから瞑想も祈りも分けられないものなのでした。
これはね、私が現臨感を失った時に私が独自に開発した、唯一無二のメソッドなんですよ!...って、そんなことある訳無い!
古今東西のあらゆる霊性の道において、普段は表側に隠れ、ある時に裏側から突如顕わになる普遍的な道に違いありません!
普遍的なものこそが唯一無二のものなんです!...


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする