いつも“思いを超えている“とか、この超えているということは、“元からある“(内在していると言ってもいいでしょうが)というニュアンスがあります。
私が居る以前からあるもの、その私はそれ無しには存在出来ないもの...それはもう絶対的なものと言ってもいいでしょう。
私は常々それは、神、真我をおいては無いと感じてなりません。
神、真我といっても、神は実在するか、どの宗教で語られる神か、とか真我とは何か、そういう実体はあるのか、とそのように対象化して、我々が考えているようなものでないことは言うまでもありません。
あくまでも、世の中が何を言っているか、信じているか、ということでなく、自分自身に、実存に即したものということなのです。
その自己からして先のとおり、“私は何故ここに存在しているのか“、と考えている以前からあるものです。
それは又、その私の思いを超えたものである、神的なものと一つのもの...それが神、真我は絶対的という由縁なのです。
それは、何か別のものに置き換えることが出来ない、別のものの属性に還元出来ないもの...何ものにも依存すること無く、それ自体でなっている、あり続けるものに他なりません。
“いや、自己は命が尽きたら消えてしまうではないか?“、と思う向きもあるかもしれませんが、それはそう思われた、信じられた自己のことではありませんか?
又意識というものも、それと密接に関わるものではありますが、私はいつも意識が向くとか向けられるとか言っているように、その元から向けられるものかある、ということを示唆しているものです。
この意味で、それは意識を超えたものと言うことが出来るでしょう。
絶対的ということは、相対化出来ない、分割出来ないということです。
ある神信仰は絶対的、あるイデオロギーは絶対的とみなしているものは、その実は相対的な思念に囚われた状態のことを言っているのです。
いかなる宗教、哲学、スピの道、精神的な道においても神、真我を求めない、問題にしないものなどあるでしょうか?
この意味で、これほど普遍的なものは無いと言ってもいいでしょう。
普遍的なものは、あれとかこれに分割することが出来ない...それは個己の在り方と同じなのです。どの宗教とか思想とかに分割出来ないものが、一人一人の我々を超えて、内在しているのです。
自己は普遍的なものと切り離れることが無い...一人一人の神、真我への目覚めが普遍的なものの目覚めでない、とどうして言えるでしょうか?
そして、その絶対的なものが自己実存に切り込んで来たのなら、それと一つになることを求めずにおれなくなるでしょう。
超越的なものと自己、真我は元から一つのものなのだから!...
私が居る以前からあるもの、その私はそれ無しには存在出来ないもの...それはもう絶対的なものと言ってもいいでしょう。
私は常々それは、神、真我をおいては無いと感じてなりません。
神、真我といっても、神は実在するか、どの宗教で語られる神か、とか真我とは何か、そういう実体はあるのか、とそのように対象化して、我々が考えているようなものでないことは言うまでもありません。
あくまでも、世の中が何を言っているか、信じているか、ということでなく、自分自身に、実存に即したものということなのです。
その自己からして先のとおり、“私は何故ここに存在しているのか“、と考えている以前からあるものです。
それは又、その私の思いを超えたものである、神的なものと一つのもの...それが神、真我は絶対的という由縁なのです。
それは、何か別のものに置き換えることが出来ない、別のものの属性に還元出来ないもの...何ものにも依存すること無く、それ自体でなっている、あり続けるものに他なりません。
“いや、自己は命が尽きたら消えてしまうではないか?“、と思う向きもあるかもしれませんが、それはそう思われた、信じられた自己のことではありませんか?
又意識というものも、それと密接に関わるものではありますが、私はいつも意識が向くとか向けられるとか言っているように、その元から向けられるものかある、ということを示唆しているものです。
この意味で、それは意識を超えたものと言うことが出来るでしょう。
絶対的ということは、相対化出来ない、分割出来ないということです。
ある神信仰は絶対的、あるイデオロギーは絶対的とみなしているものは、その実は相対的な思念に囚われた状態のことを言っているのです。
いかなる宗教、哲学、スピの道、精神的な道においても神、真我を求めない、問題にしないものなどあるでしょうか?
この意味で、これほど普遍的なものは無いと言ってもいいでしょう。
普遍的なものは、あれとかこれに分割することが出来ない...それは個己の在り方と同じなのです。どの宗教とか思想とかに分割出来ないものが、一人一人の我々を超えて、内在しているのです。
自己は普遍的なものと切り離れることが無い...一人一人の神、真我への目覚めが普遍的なものの目覚めでない、とどうして言えるでしょうか?
そして、その絶対的なものが自己実存に切り込んで来たのなら、それと一つになることを求めずにおれなくなるでしょう。
超越的なものと自己、真我は元から一つのものなのだから!...
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