いつも拝聴している、瞑想家、金井系一郎先生のYouTubeのメルマガで、先生は一個なる人間と多くの他者との関係性について、“蜘蛛の巣“を引き合いにして述べておられました。
無数の縦と横に綾なす糸の一つの交点に私という個がおり、その綾なす糸とのつながり、関係性無しには自己は存在出来ないのです。この関係性のことを仏教では縁起と言っています。
何人もそれから逃れることは出来ない!...なるほど正に蜘蛛の巣みたいですね!
その関係とのつながりにおいて、自由であることはどういうことなのか?、ということが金井先生の話の主なテーマなのでした。
この個的なものと全体的なものとの関係性については、色々なものに喩えられるもので、木と葉っぱのそれとか、、一個なる人間の成り立ち自体も、無数の細胞から成っているように、それこそ無数にある訳です。
私が自分の目でハッキリとそういうものを見たのは、数十年前、自分の血液の状態を顕微鏡で観察した時でした。
そこには、無数の赤血球の集まりがつながっていて、それが又一つの球体状のものを形成しているという、フラクタルな構造があるのは、確認出来るのですが、一つ一つの赤血球の球体はどこか色褪せ、歪みが感じられ、その結び具合も何かクンズホグレツと、不整合にもつれ合っているようにも見えるのでした。
そこで、隣に居た専門家そうな?人が、“あなたは身体はとても健康体とは思えません。だからこの健康になるための浄水器を通した水を飲んでみて、もう一度顕微鏡をごらんになってみて下さい!“、と言うので、数分後、その怪しい?専門家の言うがままに試してみるのでした。
すると、そのわが血液の有機的共同体は、赤血球の一つ一つが鮮明な球体のようになり、不整合なそのつながり具合も、何だか調和のとれたものに映り出したではありませんか?
私はそれを見て即座に、その一万円くらいはしたその浄水器を衝動的に買ってしまったのでした。(その古くなって、蜘蛛の巣が張っているような浄水器はまだ我が家にあります)
由緒ある医療関係の専門家もきっと、健康な人の血液の状態はそういうものであると、それが本来のサラサラな血液の有り様だと言うでしょう。健康な状態とは本来性を取り戻すということなのです。
そこには、一つの個体性も、全体的関係性もハッキリと移し出されるのです。
自由であるということは、何よりも自立した個性が感じられるということでしょう。
それでいて、その自由な個が個であるままで、全体的有機的関係性も感じられる、そのことが不自由な、縺れあい、もたれ合いというものにならない、ということではないでしょうか?
そして又、このこと自体が、個と全体の本来の“関係性“だとも言えるでしょう。
もっとも、顕微鏡で自分の血液の状態を見たり、そういう風な説明を聞いて、“なるほどな!“、と思うことと実際に自由になることを感じるのは別のことであるのは言うまでもないですが...
無数の縦と横に綾なす糸の一つの交点に私という個がおり、その綾なす糸とのつながり、関係性無しには自己は存在出来ないのです。この関係性のことを仏教では縁起と言っています。
何人もそれから逃れることは出来ない!...なるほど正に蜘蛛の巣みたいですね!
その関係とのつながりにおいて、自由であることはどういうことなのか?、ということが金井先生の話の主なテーマなのでした。
この個的なものと全体的なものとの関係性については、色々なものに喩えられるもので、木と葉っぱのそれとか、、一個なる人間の成り立ち自体も、無数の細胞から成っているように、それこそ無数にある訳です。
私が自分の目でハッキリとそういうものを見たのは、数十年前、自分の血液の状態を顕微鏡で観察した時でした。
そこには、無数の赤血球の集まりがつながっていて、それが又一つの球体状のものを形成しているという、フラクタルな構造があるのは、確認出来るのですが、一つ一つの赤血球の球体はどこか色褪せ、歪みが感じられ、その結び具合も何かクンズホグレツと、不整合にもつれ合っているようにも見えるのでした。
そこで、隣に居た専門家そうな?人が、“あなたは身体はとても健康体とは思えません。だからこの健康になるための浄水器を通した水を飲んでみて、もう一度顕微鏡をごらんになってみて下さい!“、と言うので、数分後、その怪しい?専門家の言うがままに試してみるのでした。
すると、そのわが血液の有機的共同体は、赤血球の一つ一つが鮮明な球体のようになり、不整合なそのつながり具合も、何だか調和のとれたものに映り出したではありませんか?
私はそれを見て即座に、その一万円くらいはしたその浄水器を衝動的に買ってしまったのでした。(その古くなって、蜘蛛の巣が張っているような浄水器はまだ我が家にあります)
由緒ある医療関係の専門家もきっと、健康な人の血液の状態はそういうものであると、それが本来のサラサラな血液の有り様だと言うでしょう。健康な状態とは本来性を取り戻すということなのです。
そこには、一つの個体性も、全体的関係性もハッキリと移し出されるのです。
自由であるということは、何よりも自立した個性が感じられるということでしょう。
それでいて、その自由な個が個であるままで、全体的有機的関係性も感じられる、そのことが不自由な、縺れあい、もたれ合いというものにならない、ということではないでしょうか?
そして又、このこと自体が、個と全体の本来の“関係性“だとも言えるでしょう。
もっとも、顕微鏡で自分の血液の状態を見たり、そういう風な説明を聞いて、“なるほどな!“、と思うことと実際に自由になることを感じるのは別のことであるのは言うまでもないですが...
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