五井先生は、「神のみ実在する」と言い、ラマナ.マハルシは「ただ真我のみ実在する」と言いました。
精神的な道には、数多の思えや方法がありますが、根本的にはそういうものしかないのではないか?
いやもう、年々、本当にそう感じて来てなりません。
私的には、この役立たずの、業の深い私が実在するようにも思えますが、そういう私の業的行状の数々のこともあるのだろうけど、来ては去りゆくもののようにしか感じません。
しかし、ここにずっとずっと息づいているものがあるではないか?
ある時、神の臨在というものをアリアリと感じた。又ある時、私の内奥から、思っていたものでまるでない、我ならぬ我がぬくぬくと立ち現れたのを感じた。...しかし、それはその時々の体験といったものでは無かった!...それは、この今の今、感じていることではないのか!
このアリアリと感じられるものは、そういうものばかりなのです。
神と自己...私が居て、神を信じ、従うのではありません。神があって、真我があるのではありません。私だけの私は真の自己ではなく、神だけの神(理念上の、思念された神)は神ではありません。
分けられないものが実在するのです。実体的には分かりませんが、そのように意識されるのです。
教えというのなら、幾人かの教師から魂を揺さぶらずにおれない教えを拝聴してきました。しかし、それらはすべてこの”神、真我のみが実在する”、ということに関連していたのでは無かったか?
末節的なこと、非本質的なことは何も残っていない、何も身についていないのです!
それらは、来ては去りゆく消えてゆく姿なのでしょう。
然るに、何故特定の宗派にしか通用しない教え、メソッドなど方便的なものに固執する向きが多いのだろうか?
自分が信じている教え、又は自分が作りだした理論...固執すればするほど、”実在”からは切り離される...一個の自分が信じ、従っているものは、”切れ端”に過ぎないにも拘わらず!...
時代、ところを超えた、普遍的な教え、方法などが存在し続けた例などどこにも無いではありませんか?
自分と思えや方法が二つになっているものには、浮いた、切り離されたもののようで、実在性は感じられないのです。
それは、二つで一つ、すべてで一つのものであるはずなのです。
形、方法を超えたものを意識しなければ...又、意識されるものはそういうものでしかありません。
一個のように思える私を意識してみる...私は何か、と考えるのではなく意識してみる...
意識されるものは、個だけのものではない、そう在らしめているものが一つに意識される...
ただ、一つ貫いているものは、その一如となったものばかりではないか?!...
しかし、最初から一つになっているものには、そもそも意識されるということもないでしょう。
だから、どうしても私は、神と自己の二つで一つのものに意識が向いてしまうのです。
精神的な道には、数多の思えや方法がありますが、根本的にはそういうものしかないのではないか?
いやもう、年々、本当にそう感じて来てなりません。
私的には、この役立たずの、業の深い私が実在するようにも思えますが、そういう私の業的行状の数々のこともあるのだろうけど、来ては去りゆくもののようにしか感じません。
しかし、ここにずっとずっと息づいているものがあるではないか?
ある時、神の臨在というものをアリアリと感じた。又ある時、私の内奥から、思っていたものでまるでない、我ならぬ我がぬくぬくと立ち現れたのを感じた。...しかし、それはその時々の体験といったものでは無かった!...それは、この今の今、感じていることではないのか!
このアリアリと感じられるものは、そういうものばかりなのです。
神と自己...私が居て、神を信じ、従うのではありません。神があって、真我があるのではありません。私だけの私は真の自己ではなく、神だけの神(理念上の、思念された神)は神ではありません。
分けられないものが実在するのです。実体的には分かりませんが、そのように意識されるのです。
教えというのなら、幾人かの教師から魂を揺さぶらずにおれない教えを拝聴してきました。しかし、それらはすべてこの”神、真我のみが実在する”、ということに関連していたのでは無かったか?
末節的なこと、非本質的なことは何も残っていない、何も身についていないのです!
それらは、来ては去りゆく消えてゆく姿なのでしょう。
然るに、何故特定の宗派にしか通用しない教え、メソッドなど方便的なものに固執する向きが多いのだろうか?
自分が信じている教え、又は自分が作りだした理論...固執すればするほど、”実在”からは切り離される...一個の自分が信じ、従っているものは、”切れ端”に過ぎないにも拘わらず!...
時代、ところを超えた、普遍的な教え、方法などが存在し続けた例などどこにも無いではありませんか?
自分と思えや方法が二つになっているものには、浮いた、切り離されたもののようで、実在性は感じられないのです。
それは、二つで一つ、すべてで一つのものであるはずなのです。
形、方法を超えたものを意識しなければ...又、意識されるものはそういうものでしかありません。
一個のように思える私を意識してみる...私は何か、と考えるのではなく意識してみる...
意識されるものは、個だけのものではない、そう在らしめているものが一つに意識される...
ただ、一つ貫いているものは、その一如となったものばかりではないか?!...
しかし、最初から一つになっているものには、そもそも意識されるということもないでしょう。
だから、どうしても私は、神と自己の二つで一つのものに意識が向いてしまうのです。
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