「自然というのは、自はおのずからということで、行者のはからいでなくて、そうならせるということばである。然というのは、そうならせるということばで、行者の方のはからいでなくて、如来の方の誓いであるがゆえにそういうのである」(親鸞「古写書簡」)
何度か書いていることですが、私に恒常的に神的な現臨感覚が定着したのは、26年程前からです。
一寸、意識的になるだけでそうなる...火種というか、そういう下地を持った意識状態になったということです。
こうなるまでには、それまでの長年の修行の積み重ねがあった訳でして!...って、そんなこたあない!
修行らしいことなどしてこなかったのは勿論ですが、むしろ、そういう状態、又その先に見据えられていた悟りといった境地を得よう、目指そうという気持ちを断念させられた、はからいを手放されたことに拠ると言ってもいいのです。
手放されたのです。頭の中にいつも思い巡らされていたもの、固執されていたものがスコーンと落ちたような感じになりました。
これは、そういう思いに囚われた自分からは手放すことなど出来ないのですよ。
これはですね、思わず手放してしまうようなものが現前しているのが感じられたからそうならざるを得ないということなのです。
つまり神的なものが現臨したのです!...得ようとしても得られないものが、諦める、放てきすることで得られるというのだからこんな逆説的なことはありません。
“お前が今、握りしめているものを手放せ!“...そういう声なき声の促しをハッキリ感じました。
神、如来、主なる御方の方が迫って来る!、私をその元につなげようと!
私に何やら安心が芽生えて来て、そのものにゆだねようと意識が動いたのです。
実は同じようなことは、それに遡ること15年前にもあったことなのです。
“そうだったのだ!“...私の内奥のどこかに刻印されていたものがアリアリとよみがえったのです。
神のみ手に捉えれなければ、そういうことには絶対になり得ないのだ!
神のハタラキに拠り頼むしかない!...もう、そうなると不退転である!
言うまでもなく、自分の力によってそうなるのではない!…神が臨まれるからそうなるまでということなのです!
こうした私の経験で最も言いたいことは、得よう、求めようという思い、はからいを手放せ!...ということではなく...(こういう物言いが何と多いことだろう!)
“神の臨在を求めよ!“、ということに尽きよう!
神や仏の存在が信じられないのなら信じなくてもいいでしょう。
それは、いたずらに観念ごとで頭の中をいっばいにしてしまうことにもなりかねませんしね!...
つまり、自分で出来もしないことを自分でやろうとしたり、信じられないものを信じようとしたりしなくてもいいのです。それがはからいというものでしょう。
ただ、自分に真向かいに現前しているものは、信じなくても受け入れるしか無いでしょう!...
何度か書いていることですが、私に恒常的に神的な現臨感覚が定着したのは、26年程前からです。
一寸、意識的になるだけでそうなる...火種というか、そういう下地を持った意識状態になったということです。
こうなるまでには、それまでの長年の修行の積み重ねがあった訳でして!...って、そんなこたあない!
修行らしいことなどしてこなかったのは勿論ですが、むしろ、そういう状態、又その先に見据えられていた悟りといった境地を得よう、目指そうという気持ちを断念させられた、はからいを手放されたことに拠ると言ってもいいのです。
手放されたのです。頭の中にいつも思い巡らされていたもの、固執されていたものがスコーンと落ちたような感じになりました。
これは、そういう思いに囚われた自分からは手放すことなど出来ないのですよ。
これはですね、思わず手放してしまうようなものが現前しているのが感じられたからそうならざるを得ないということなのです。
つまり神的なものが現臨したのです!...得ようとしても得られないものが、諦める、放てきすることで得られるというのだからこんな逆説的なことはありません。
“お前が今、握りしめているものを手放せ!“...そういう声なき声の促しをハッキリ感じました。
神、如来、主なる御方の方が迫って来る!、私をその元につなげようと!
私に何やら安心が芽生えて来て、そのものにゆだねようと意識が動いたのです。
実は同じようなことは、それに遡ること15年前にもあったことなのです。
“そうだったのだ!“...私の内奥のどこかに刻印されていたものがアリアリとよみがえったのです。
神のみ手に捉えれなければ、そういうことには絶対になり得ないのだ!
神のハタラキに拠り頼むしかない!...もう、そうなると不退転である!
言うまでもなく、自分の力によってそうなるのではない!…神が臨まれるからそうなるまでということなのです!
こうした私の経験で最も言いたいことは、得よう、求めようという思い、はからいを手放せ!...ということではなく...(こういう物言いが何と多いことだろう!)
“神の臨在を求めよ!“、ということに尽きよう!
神や仏の存在が信じられないのなら信じなくてもいいでしょう。
それは、いたずらに観念ごとで頭の中をいっばいにしてしまうことにもなりかねませんしね!...
つまり、自分で出来もしないことを自分でやろうとしたり、信じられないものを信じようとしたりしなくてもいいのです。それがはからいというものでしょう。
ただ、自分に真向かいに現前しているものは、信じなくても受け入れるしか無いでしょう!...
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