哲学や宗教など精神的な道を求めたことのある人ならば、一度は個的なるものと普遍的なるものについて、意識が向かわされたことはあるでしょう。
"自分がこうして生きているのは何故か?"、"本当の自分とは何か?"、"世の中には、どうして甲とか乙、自他などで絶えず争いが絶えないのか?"、"真理はかくも数多あって、どこにも落ち着くことが無い、普遍的真理というものはあるのか?"、"普遍者ともいうべきもの、神は実在するのか?"...
そして、少しくこのことに耽思するならば、個と普遍の問題というものは切り離せないもの、ということに気付かれてこないでしょうか?
"自分の存在理由が分かったとしても、他との、ひいては全体との関わりはどうなるのか、"普遍的真理が分かったとしても、それは自分自身に直結していなければ無意味であろう..."
そして又この問題は、全く合理的な理解というものを超えている、ということが直感されるでしょう。そういう線で分かったとて、この生の現実、目の当たり、直なる実存には何一つ触れて来ないのですi
これが思弁で終わるなら、すべての問題は思弁で解決されるであろう...
理性的な頭から、その直接的に関わる世界へと一歩踏み超えなければならないのですi...それには思われた私からでなく、超えせしめるもの自体なるものが臨むことで開かれるのですi...
って、毎度当たり前のように書いているのですけど、どうやら我ながら途方もないことを書いていることに改めて気付かされるのです。驚いちゃいますねえi
大調和協会の会主命御様に("が"ではないi)覚証されたものこそは、こういうものだったのです。
そして、何の間違いでか、私が人生の裏側へと踏み入れて、垣間見た世界...そこには"個として分離した私は無かった...つながりにおいて在らしめられていた...それでいて、個としてのみ感じていたものとは比べるべくもなく私自身を感じていた..."
このことは、全く命御様において告げられていたもの、そのもののように感じられました。
いいや、それはこれまでの幾多もの有名、無名の覚者、求道者たちにおいても同様のものだったに違いない、と私は思っています。少なくとも、私はそうでなくては頷くことが出来ないものを感じています。
それは正に、思われた自己を超えせしめるものによって、目覚めさせられたものであることにおいてi
私が長年、協会と関わってきて次のような言説をよく聞かされました。..."これまでは心の、内面的な確証である、宗教的次元のもので、今、顕わになった大調和世界観なるものは、この現実の真中において開示されたものである"、と過去の他の宗教と、新たにそこに開かれたものとは次元が違うというようなことを。
そこに、私には二つの目覚めの世界の違いがあるようには、どうしても受け取れてこなかったのです。
このことが長年、どうしても私には頭にも、身にも頷くことが出来なかったことなのです。
どちらも神的な恩寵からもたらされるものではないでしょうか?...そうでなければ、すべての精神的覚醒というものは、一個人の"心理的悟境"にすぎない、ということになってしまうのではないでしょうか?
私が言いたいことは、普遍なるものに二つは無いということ。そしてこれまで記録として残されているその覚証のモニュメントというものは、個人の内面的次元にとどまるものでなく、多少とも、その現実世界への開顕に向けられていないものなど存在しないであろう、ということです。それらには未来の個と普遍の調和的世界の実現への願いが込められてあったのではなかったか?
独善的と言ったら過ぎるかもですが、こちらと他とを区別されるような言葉...私は先とは違う意味で、それこそ宗教ならざるはずの協会に、宗教的次元と変わらないものを感じ取ってしまったのです。これがどうしても私が協会に両手を上げて飛び込むことが出来なかった、大きな理由なのでした。
もっともこれは、もはや協会に対してのものというより、すべての宗教的関わりにおいての私の宿命と言ってもいいのですが...
"自分がこうして生きているのは何故か?"、"本当の自分とは何か?"、"世の中には、どうして甲とか乙、自他などで絶えず争いが絶えないのか?"、"真理はかくも数多あって、どこにも落ち着くことが無い、普遍的真理というものはあるのか?"、"普遍者ともいうべきもの、神は実在するのか?"...
そして、少しくこのことに耽思するならば、個と普遍の問題というものは切り離せないもの、ということに気付かれてこないでしょうか?
"自分の存在理由が分かったとしても、他との、ひいては全体との関わりはどうなるのか、"普遍的真理が分かったとしても、それは自分自身に直結していなければ無意味であろう..."
そして又この問題は、全く合理的な理解というものを超えている、ということが直感されるでしょう。そういう線で分かったとて、この生の現実、目の当たり、直なる実存には何一つ触れて来ないのですi
これが思弁で終わるなら、すべての問題は思弁で解決されるであろう...
理性的な頭から、その直接的に関わる世界へと一歩踏み超えなければならないのですi...それには思われた私からでなく、超えせしめるもの自体なるものが臨むことで開かれるのですi...
って、毎度当たり前のように書いているのですけど、どうやら我ながら途方もないことを書いていることに改めて気付かされるのです。驚いちゃいますねえi
大調和協会の会主命御様に("が"ではないi)覚証されたものこそは、こういうものだったのです。
そして、何の間違いでか、私が人生の裏側へと踏み入れて、垣間見た世界...そこには"個として分離した私は無かった...つながりにおいて在らしめられていた...それでいて、個としてのみ感じていたものとは比べるべくもなく私自身を感じていた..."
このことは、全く命御様において告げられていたもの、そのもののように感じられました。
いいや、それはこれまでの幾多もの有名、無名の覚者、求道者たちにおいても同様のものだったに違いない、と私は思っています。少なくとも、私はそうでなくては頷くことが出来ないものを感じています。
それは正に、思われた自己を超えせしめるものによって、目覚めさせられたものであることにおいてi
私が長年、協会と関わってきて次のような言説をよく聞かされました。..."これまでは心の、内面的な確証である、宗教的次元のもので、今、顕わになった大調和世界観なるものは、この現実の真中において開示されたものである"、と過去の他の宗教と、新たにそこに開かれたものとは次元が違うというようなことを。
そこに、私には二つの目覚めの世界の違いがあるようには、どうしても受け取れてこなかったのです。
このことが長年、どうしても私には頭にも、身にも頷くことが出来なかったことなのです。
どちらも神的な恩寵からもたらされるものではないでしょうか?...そうでなければ、すべての精神的覚醒というものは、一個人の"心理的悟境"にすぎない、ということになってしまうのではないでしょうか?
私が言いたいことは、普遍なるものに二つは無いということ。そしてこれまで記録として残されているその覚証のモニュメントというものは、個人の内面的次元にとどまるものでなく、多少とも、その現実世界への開顕に向けられていないものなど存在しないであろう、ということです。それらには未来の個と普遍の調和的世界の実現への願いが込められてあったのではなかったか?
独善的と言ったら過ぎるかもですが、こちらと他とを区別されるような言葉...私は先とは違う意味で、それこそ宗教ならざるはずの協会に、宗教的次元と変わらないものを感じ取ってしまったのです。これがどうしても私が協会に両手を上げて飛び込むことが出来なかった、大きな理由なのでした。
もっともこれは、もはや協会に対してのものというより、すべての宗教的関わりにおいての私の宿命と言ってもいいのですが...
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