日本神道には神社に代表されるように、人々の心の故郷、遠つミオヤへの回帰を促す側面が有りますが、一部には神の方が表に顕れてものを言う、啓示する神という性格を打ち出しているものもあります。
それが幕末に派生した黒住教、天理教、金光教などの教派神道であり、さらには大本教とその幾多の継承へと続く流れに見ることが出来ます。
私はこの流れを仮に日本的メシアニズムと呼んでいますが、この色合いは大本の出口王仁三郎聖師の登場により、一気に濃厚なものとなって、神道界を超えた動力的ムーブメントとなったのはご存知の通りです。。
救世主、神の経綸、霊の洗礼…このような終末的、メシア待望的フレーズはいずれもユダヤ・キリスト教から借りたものでしたが、明治、大正、昭和の激動の時代世を席巻し、その後も日月神示などの後継にも受け継がれています。
出口聖師が聖書に深く触れていたのは、初期の著作からも、「霊界物語」を紐解いても窺い知ることが出来ます。
瑞の御霊~出口聖師が依代となった神格~の聖言に曰く…と言って引用されるのは福音書のイエスの言葉でした。
神学的表現では、「根源神厳の御霊国常立之尊は、神の経綸の関する全権を瑞の御霊神素戔嗚尊に委ねられた…」と神の独り子イエスに天の父から同様の事
が有ったという聖書の記事を彷彿させます。
そして瑞の御霊とイエスは同一なのかと思いきや、「本当の救世主はイエスにあらず、神素戔嗚尊である」と告知されます。
これを聞いてキリスト教徒は多分「そういう事にしておこう」とは思えないだろうと感じますが、これを聖師が打ち出していた、宗教対立を超えた和合のための方便と観る事も出来ます。
何にせよ私にはこの瑞の御霊と表現されているものは、人類に普遍的な神と人とを結ぶ見えざる本体に思えてくるのですが…
昔から私には聖師の言葉にはどこまで本気にしていいのか分からず「そういう事にしておかない」と付き合えないところがありました。
その事を最も端的に示しているのが「霊界物語」の大著述かと思います。
曰く最後の審判の書…古事記の真解…こういうフレコミを真に受けて読んだら、多分肩すかしを食うでしょう。
これは多くの大本のエリート幹部には躓きの石だったようで、離教の要因となりました。
ある意味では本当に審判の書だったのかも分かりません。
これに挑戦しようとする向きは、出口の無いトンネルに入り込む事にもなりかねないので覚悟が要ります。
何時頃読み終えるのかも検討が付かないでしょう。何せ80巻ばかし有るので…
何をどう読んだらいいのか、てんで掴みどころがない…これは出口聖師そのものを体現しているようです。
それはあたかも字義の解釈などに捉われた、全ての書き物をあざけ笑っているかのようです。
物語とは物型理に通じ、この書き物自体が神経綸の型代の役目をしているのかも知れません。
ところでこの書物は発禁処分になったことがあります。
何処がお上の逆鱗にふれたのか…舞台はエルサレムで、東方から宣教に来たルートバハー団(大本)の宣伝師と再臨のキリストを信奉するユダヤ系の信仰集団との交流などが描かれていました。
これを読むと出口聖師こそ、再臨のキリストであるかのようにも受け取られ、実際多くの人からそのように目されていました。
しかし、聖師自身はあるところで、それを真っ向から否定してます。
その理由をキリスト教徒が聞いたら噴飯ものでしょう。
曰く「イエスはたかだか小アジアの一部にしか洗礼を施さなかった、我は今全世界に洗礼を施さんとしているのだ。一緒にされては迷惑である!」
洗礼とは霊のバプテスマのことですが、勿論私は聖師がそれを行ったという話は聞いたことがありません。
でも私には、これは「世界的規模の聖霊のバプテスマの暗示」であることに思われてならないのですが…
一宗教を超えて普遍的な領域から発っせられたものは、現実界に応現する時も普遍的とならざるを得ない…
信じる、信じないかは貴方次第です…。
それが幕末に派生した黒住教、天理教、金光教などの教派神道であり、さらには大本教とその幾多の継承へと続く流れに見ることが出来ます。
私はこの流れを仮に日本的メシアニズムと呼んでいますが、この色合いは大本の出口王仁三郎聖師の登場により、一気に濃厚なものとなって、神道界を超えた動力的ムーブメントとなったのはご存知の通りです。。
救世主、神の経綸、霊の洗礼…このような終末的、メシア待望的フレーズはいずれもユダヤ・キリスト教から借りたものでしたが、明治、大正、昭和の激動の時代世を席巻し、その後も日月神示などの後継にも受け継がれています。
出口聖師が聖書に深く触れていたのは、初期の著作からも、「霊界物語」を紐解いても窺い知ることが出来ます。
瑞の御霊~出口聖師が依代となった神格~の聖言に曰く…と言って引用されるのは福音書のイエスの言葉でした。
神学的表現では、「根源神厳の御霊国常立之尊は、神の経綸の関する全権を瑞の御霊神素戔嗚尊に委ねられた…」と神の独り子イエスに天の父から同様の事
が有ったという聖書の記事を彷彿させます。
そして瑞の御霊とイエスは同一なのかと思いきや、「本当の救世主はイエスにあらず、神素戔嗚尊である」と告知されます。
これを聞いてキリスト教徒は多分「そういう事にしておこう」とは思えないだろうと感じますが、これを聖師が打ち出していた、宗教対立を超えた和合のための方便と観る事も出来ます。
何にせよ私にはこの瑞の御霊と表現されているものは、人類に普遍的な神と人とを結ぶ見えざる本体に思えてくるのですが…
昔から私には聖師の言葉にはどこまで本気にしていいのか分からず「そういう事にしておかない」と付き合えないところがありました。
その事を最も端的に示しているのが「霊界物語」の大著述かと思います。
曰く最後の審判の書…古事記の真解…こういうフレコミを真に受けて読んだら、多分肩すかしを食うでしょう。
これは多くの大本のエリート幹部には躓きの石だったようで、離教の要因となりました。
ある意味では本当に審判の書だったのかも分かりません。
これに挑戦しようとする向きは、出口の無いトンネルに入り込む事にもなりかねないので覚悟が要ります。
何時頃読み終えるのかも検討が付かないでしょう。何せ80巻ばかし有るので…
何をどう読んだらいいのか、てんで掴みどころがない…これは出口聖師そのものを体現しているようです。
それはあたかも字義の解釈などに捉われた、全ての書き物をあざけ笑っているかのようです。
物語とは物型理に通じ、この書き物自体が神経綸の型代の役目をしているのかも知れません。
ところでこの書物は発禁処分になったことがあります。
何処がお上の逆鱗にふれたのか…舞台はエルサレムで、東方から宣教に来たルートバハー団(大本)の宣伝師と再臨のキリストを信奉するユダヤ系の信仰集団との交流などが描かれていました。
これを読むと出口聖師こそ、再臨のキリストであるかのようにも受け取られ、実際多くの人からそのように目されていました。
しかし、聖師自身はあるところで、それを真っ向から否定してます。
その理由をキリスト教徒が聞いたら噴飯ものでしょう。
曰く「イエスはたかだか小アジアの一部にしか洗礼を施さなかった、我は今全世界に洗礼を施さんとしているのだ。一緒にされては迷惑である!」
洗礼とは霊のバプテスマのことですが、勿論私は聖師がそれを行ったという話は聞いたことがありません。
でも私には、これは「世界的規模の聖霊のバプテスマの暗示」であることに思われてならないのですが…
一宗教を超えて普遍的な領域から発っせられたものは、現実界に応現する時も普遍的とならざるを得ない…
信じる、信じないかは貴方次第です…。
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