人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ジンジン、そういう事

2015-01-04 19:57:57 | 日本的霊性
今、ジンジンしてます。
風邪ひいたから?…
いえ、ぐっすり寝たら順調に回復して、あの感覚も戻ってきました…メデタシ!
ヤッパリ自分のためにこのブログはあるという事ですね。

元旦に初詣に、例年のように近辺の氷川神社に行ったのですが、年越し寒波にやられたようです。
氷川神社。祭神は素戔嗚尊。私の産土さんです。
産土の神とは遠つミオヤ、親神と言ったところでしょうか…
10数年前に神道系の霊感者にリサーチしてもらった事が有ります。
調べてもらう以前から、何となく感じていました。
ホントかどうかは分かりませんけど…
神様事というのは宗教のドグマのように信じ込むんじゃなくて「そういう事にしておこう」という遊び心を持ったユルイ接し方が肝要だと思います。
こういうところから、寛容な精神も養われて行くのでしょう。
神社には、鳥居から狛犬、玉串など型代(かたしろ、見えない物を形に代えたもの)でいっぱいです。
御神体と称しているものの多くは鏡です。
言葉からして神に通じていますが、実に意味深いものが有りますね。
「神を知りたければ、ここに映じたお前さん自身をとくと見るがいい」という訳ですね。
いずれにしても「そういう事にしておけばいい」のです。
こういう在り方を一神教の人たちが、偶像崇拝と決めつけるのは全くズレていると思わざるを得ないですね。
型代としてのご神体を神そのものとして拝んでたら勿論そうなります。
でもそうならないがための、そもそもの型代の意味が有ります。
偶像崇拝というものの本質的な意味は有限的なもの、相対的なものと、無限のもの、絶対的なものとを混同する事に有ります。
これは事の善悪とか、倫理とかの問題ではありません。
この本末転倒した客体化された精神は、無限のもの、絶対的なものと結びつくことが出来なくなるという事が問題なのです。
物質的器物は壊すことが出来ます。
しかし見えない偶像崇拝、宗教的ドグマ崇拝は簡単に壊れる事が有りません。
何より信じている者たちが、絶対に正しいと信じ込んでいるためです。

神社の原始形態は巨石信仰だったと言われます。
いや、初めはおそらく祀るという事も行われていなかったと思います。
祭祀という観念はおそらく儒教から来ているのでしょう。
巨石、大木、あるいはそれらを有する森、これらは神気、霊妙な波動の媒体です。
神籬(ひもろぎ)、依代(よりしろ)と言ったりします。
それはあくまで媒体だ、と言うのが重要な事で、それ自体を拝む対象にしてしまったら、やはり偶像化してしまいます。
ある神社に行くと巨石にしめ縄が張られているのを観ますが、出口聖師は「あれが信仰の堕落の初めだ」と言ってます。
エネルギーの媒体を封じ込めてしまう、ということの象徴、神の押し込めにつながるからです。
このエネルギーは本当に媒体にすべきものは自分自身に他なりません。
そうなれば皆神の依代になれます。
今後ますます「ジンジンする」人が増えてくるのを願ってます。



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