人間にとって意識というもの、意識的であることが如何に重要であるか、ということは再三言って来ました。
意識したままが自己であり、人生であり、世界であると言っても過言では無いのです。
ですから、人生観とか世界観とか言うけれど、それをどう考えるかというより、すでに意識下では観られていると言ってもいいのです。
であるからして、意識次元で自分という個人は居ない、肉体は無いと感じたらそれは無くなるのです。...って、そんなことはなかろう!...
あなたは、”私は居ない、肉体は無い”、なんて言っている覚者気取りの人間を前にして、現にその存在を見ることが出来るのですからね。
”世界というのは、実は無いのですよ!”、...つったって、どの世界で言ってんだ!、ってもんでしょう?
だから、そういう”ナイ、ナイ”信仰を信じようとしたり、妄想したりするのは、ただそう思っている、思考次元のものに過ぎないのです。
しかし...これが意識次元でそう感じられたなら...それは例えば、自分という個人は居ない、と感じられたら、現実にそう感じられるのです。世界についてもそのように感じられてもおかしくありません。
ここでいう現実という意味は、先の現象として在るように感じることとは根本的に違います。
といって、これはもう、言葉では言い表せないもので...直に、目の当たりに、アリアリと...実存する、現存する...と、こういう風に言い表すしかないようなものです。これがリアリティというものなんだ!
これは、しかしこのように客観的存在について言われるものでなく、主観的な世界のものとして片付けられても仕方ないものではあります。
だけど、よく考え、そして感じてみて下さい。あなたが客観的に見て、感じているものに、あなたは本当にリアルな現実というものを感じられるでしょうか?、その存在は、本当に疑うことが出来ないものなのでしょうか?
本当にリアルな現実の前では、消え去ってしまうように感じるものではないのか?
本当にリアルに感じられなければ、一体何が、どこに現実があるだろうか?
意識次元で感じられる現実は疑うことが出来ません。それが取りも直さず、思考次元を超えているということに他ならないのです。
又、通常現象的なものとして理解されている現実と、意識的な現実とは違うと言いました。しかし私はそこに現象化の可能性は秘められているように感じてならないのです。そのすべてが、あるいはどの部分が、ということは分からないのですが...又(これは、ベルジャーエフも同様のことを言っていましたが)、その意識下で感じたままが現れるとも思えないのですが...何にせよ、現象と現実は一つになるかもしれない、ということです。これは、普通に理解されている現実化ということでしょう。
それは、おそらく”意識に感じたものは、消え去るものでない”、というリアル感から来るものでしょう?
それをもたらすものは、言うまでもなく、私、我々ではありません。それは、我々を超えたもの、神のみ手にゆだねられているのでしょう。
そして又、私はそういうものの意志を感じて、かく言うのです!
ついでに言おう!...”お前が感じたままが、人生、世界なのだ!”、と、私を超えたところからこのように示されているのをいつも感じているのです。それは私の自由と切り離されてはいないのです。
そして私の自由意志的なものは、神的な意志へと向かわざるを得ない!...
自己実存と神的現存は一つ!
そこに現象と現実の秘密が隠されているのでしょう!...
意識したままが自己であり、人生であり、世界であると言っても過言では無いのです。
ですから、人生観とか世界観とか言うけれど、それをどう考えるかというより、すでに意識下では観られていると言ってもいいのです。
であるからして、意識次元で自分という個人は居ない、肉体は無いと感じたらそれは無くなるのです。...って、そんなことはなかろう!...
あなたは、”私は居ない、肉体は無い”、なんて言っている覚者気取りの人間を前にして、現にその存在を見ることが出来るのですからね。
”世界というのは、実は無いのですよ!”、...つったって、どの世界で言ってんだ!、ってもんでしょう?
だから、そういう”ナイ、ナイ”信仰を信じようとしたり、妄想したりするのは、ただそう思っている、思考次元のものに過ぎないのです。
しかし...これが意識次元でそう感じられたなら...それは例えば、自分という個人は居ない、と感じられたら、現実にそう感じられるのです。世界についてもそのように感じられてもおかしくありません。
ここでいう現実という意味は、先の現象として在るように感じることとは根本的に違います。
といって、これはもう、言葉では言い表せないもので...直に、目の当たりに、アリアリと...実存する、現存する...と、こういう風に言い表すしかないようなものです。これがリアリティというものなんだ!
これは、しかしこのように客観的存在について言われるものでなく、主観的な世界のものとして片付けられても仕方ないものではあります。
だけど、よく考え、そして感じてみて下さい。あなたが客観的に見て、感じているものに、あなたは本当にリアルな現実というものを感じられるでしょうか?、その存在は、本当に疑うことが出来ないものなのでしょうか?
本当にリアルな現実の前では、消え去ってしまうように感じるものではないのか?
本当にリアルに感じられなければ、一体何が、どこに現実があるだろうか?
意識次元で感じられる現実は疑うことが出来ません。それが取りも直さず、思考次元を超えているということに他ならないのです。
又、通常現象的なものとして理解されている現実と、意識的な現実とは違うと言いました。しかし私はそこに現象化の可能性は秘められているように感じてならないのです。そのすべてが、あるいはどの部分が、ということは分からないのですが...又(これは、ベルジャーエフも同様のことを言っていましたが)、その意識下で感じたままが現れるとも思えないのですが...何にせよ、現象と現実は一つになるかもしれない、ということです。これは、普通に理解されている現実化ということでしょう。
それは、おそらく”意識に感じたものは、消え去るものでない”、というリアル感から来るものでしょう?
それをもたらすものは、言うまでもなく、私、我々ではありません。それは、我々を超えたもの、神のみ手にゆだねられているのでしょう。
そして又、私はそういうものの意志を感じて、かく言うのです!
ついでに言おう!...”お前が感じたままが、人生、世界なのだ!”、と、私を超えたところからこのように示されているのをいつも感じているのです。それは私の自由と切り離されてはいないのです。
そして私の自由意志的なものは、神的な意志へと向かわざるを得ない!...
自己実存と神的現存は一つ!
そこに現象と現実の秘密が隠されているのでしょう!...
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