精神的な道においては特に、それのみならず日常生活の上で、自覚意識を持つことが如何に重要か、ということは論を待たないことでしょう。
自分が病気であるという自覚が無ければ、それを癒やすことが出来ないのです。
自分の性格の大きな欠点を自覚出来なければ、何かと生きる上で支障が絶えないでしょう。例えば自我性、エゴがやたら強いこととか...自覚出来れば歯止めがかけられ、修正が出来るのです。
しかし、よくよく考えてみれば、この自我性というのは分かりやすいですが、自我は自我を自覚することが出来ないのですね。自我に囚われていることは、言うまでもなくその限界を超えられないということなのですから!
自覚意識があるということは、それを超えたものから来るということに他ならないのです。
私はこれまで何度か、自己観察、自己をみつめることなどについて、それは自分を超えたものからの、私が”照明”と呼んでいるものから来る、ということを言って来ました。
この自覚作用は、より広い日常生活に溶け込んでいることであり、そのためか、私もこれまであまり気付くことが出来なかった(自覚出来なかった)ことなのです。
つまりそれは、我々が特に神的なもの、超越者といったものを意識せずとも、何気なく感じているもので、我々本来からあるものとして認識されているものなのでしょう。
だけど、それは我々の思いを超えたものに違いはないのです!...このことをもっと意識すれば、そのことが有りやかに、そう、自覚的に感じられて来るでしょう。
先のとおり、自覚があるということは、己の自我性を知ることが出来、それを克服することも出来るということでしょう。しかしそれは、正確には自己に照明が照らされることによってなされることなのです。
自我を克服しようとする人間は、反省、内省、自分をみつめることが出来ます。しかし、大抵それは、自分が自分をみつめることだと思っているのでしょう?
そうすると、元よりそれは出来ないことなので、出来ない自分にストレスを感じたり、自責の念に苛まれることになるのではありませんか?
しかししかし、それはあなたを超えたものからなされる!...これは、実に大きな福音と言わずして何であろう!
いやいや、”人間存在は、本来から一個なる自分を超えた、神的なものと一つのものであった!”、このことが福音なのではないでしょうか?
考える人間だけでなっている人間は、元より機能不全の自我性に支配されている状態だったのです。
いつも言うように、自分を超えたものに意識を向けることにより、いつの間にか、”自分には、いつも神的なものと共にあり、そこから光を受けて生きているのだ!”、ということを実感出来るようになるでしょう!...
自分が病気であるという自覚が無ければ、それを癒やすことが出来ないのです。
自分の性格の大きな欠点を自覚出来なければ、何かと生きる上で支障が絶えないでしょう。例えば自我性、エゴがやたら強いこととか...自覚出来れば歯止めがかけられ、修正が出来るのです。
しかし、よくよく考えてみれば、この自我性というのは分かりやすいですが、自我は自我を自覚することが出来ないのですね。自我に囚われていることは、言うまでもなくその限界を超えられないということなのですから!
自覚意識があるということは、それを超えたものから来るということに他ならないのです。
私はこれまで何度か、自己観察、自己をみつめることなどについて、それは自分を超えたものからの、私が”照明”と呼んでいるものから来る、ということを言って来ました。
この自覚作用は、より広い日常生活に溶け込んでいることであり、そのためか、私もこれまであまり気付くことが出来なかった(自覚出来なかった)ことなのです。
つまりそれは、我々が特に神的なもの、超越者といったものを意識せずとも、何気なく感じているもので、我々本来からあるものとして認識されているものなのでしょう。
だけど、それは我々の思いを超えたものに違いはないのです!...このことをもっと意識すれば、そのことが有りやかに、そう、自覚的に感じられて来るでしょう。
先のとおり、自覚があるということは、己の自我性を知ることが出来、それを克服することも出来るということでしょう。しかしそれは、正確には自己に照明が照らされることによってなされることなのです。
自我を克服しようとする人間は、反省、内省、自分をみつめることが出来ます。しかし、大抵それは、自分が自分をみつめることだと思っているのでしょう?
そうすると、元よりそれは出来ないことなので、出来ない自分にストレスを感じたり、自責の念に苛まれることになるのではありませんか?
しかししかし、それはあなたを超えたものからなされる!...これは、実に大きな福音と言わずして何であろう!
いやいや、”人間存在は、本来から一個なる自分を超えた、神的なものと一つのものであった!”、このことが福音なのではないでしょうか?
考える人間だけでなっている人間は、元より機能不全の自我性に支配されている状態だったのです。
いつも言うように、自分を超えたものに意識を向けることにより、いつの間にか、”自分には、いつも神的なものと共にあり、そこから光を受けて生きているのだ!”、ということを実感出来るようになるでしょう!...
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