「何と幸福なことか 私の愛するお方よ
あなたの側におられるなんて あなたにお目にかかりたくて
私は死にたくてたまらない」(アビラの聖女テレサの「詩」/聖母文庫)
精神の道では、真我の探求、実現などに常に関心が集められているようです。
それは、悟りや覚醒体験と結びつけられている訳ですが、私は数年前からそういう方へは意識が向けられなくなりました。真我という表現もあまり使いたくないのです。
この理由は、そういう方に関心が行くことですぐ主我的な思いがもたげてきて、中々それを払拭することが出来なくなるからです。
“偽りの自分を消し去り、真の自分に目覚めなければならない!、何が真実で幻想かを見極めなければならない!、中途の段階にとどまることなく、究極の境地を目指さなければならない!...“
こういう思いに駆り立てるものは何だと思われますか?、誰がそう思い、為そうとするのですか?
為そうとしている...本当に出来ると思っているのだろうか?、一分でも自分で自分の思いを止められるのだろうか?
私はしばしば神、神的現臨、超越的なものについて言及しています。非二元の見地からは、二元的で中途の段階のように思われるかもしれません。何だっていい!
この大きな理由は、主我的な思いが真我に成りすまし、あのお方の座に取って代わろうとすることの無いようにするためです。
思われた自分とそれを超えたものとの際が示されることなく、“明け渡し“の契機の無い、如何なる真我実現の道もその前途に開かれるはずの、あの光の道は見えて来ないではないか!
いやいや、本当の理由というのは、そんな何かのためとかというところには無いのです!
本当の理由は...
理由何て無い!...理屈じゃありません!...惹かれてやまないものがあるからそうなるだけです!
先のは、どうしても意識が向かないのに対して、おのずから向いてしまうのだからしょうがありません!
何が偽りで、何が真の自分かは知らない!...しかし、“本来の自分“というものなら、このことを通して分かるのです。
それは、神にあって、神と共なる自分に他なりません。
自分から真我実現、悟りの道を志そうにも、そこには何ら確かな裏打ちがある訳でもありません。しかし、神と出会い、共にあることには、ある動かせない運命というものを感じずにおれません!
神(それは本来神と一なる我かもしれません)は、この私に何を望み、どう導かんとしているのでしょうか?
それについては、もう祈り、ゆだねるしかありません!
どう導かれようと、その運命を受け入れるしかありません!
今年に入って、一段とあのお方の迫りが近しくなって来たのは確かなようです!...
あなたの側におられるなんて あなたにお目にかかりたくて
私は死にたくてたまらない」(アビラの聖女テレサの「詩」/聖母文庫)
精神の道では、真我の探求、実現などに常に関心が集められているようです。
それは、悟りや覚醒体験と結びつけられている訳ですが、私は数年前からそういう方へは意識が向けられなくなりました。真我という表現もあまり使いたくないのです。
この理由は、そういう方に関心が行くことですぐ主我的な思いがもたげてきて、中々それを払拭することが出来なくなるからです。
“偽りの自分を消し去り、真の自分に目覚めなければならない!、何が真実で幻想かを見極めなければならない!、中途の段階にとどまることなく、究極の境地を目指さなければならない!...“
こういう思いに駆り立てるものは何だと思われますか?、誰がそう思い、為そうとするのですか?
為そうとしている...本当に出来ると思っているのだろうか?、一分でも自分で自分の思いを止められるのだろうか?
私はしばしば神、神的現臨、超越的なものについて言及しています。非二元の見地からは、二元的で中途の段階のように思われるかもしれません。何だっていい!
この大きな理由は、主我的な思いが真我に成りすまし、あのお方の座に取って代わろうとすることの無いようにするためです。
思われた自分とそれを超えたものとの際が示されることなく、“明け渡し“の契機の無い、如何なる真我実現の道もその前途に開かれるはずの、あの光の道は見えて来ないではないか!
いやいや、本当の理由というのは、そんな何かのためとかというところには無いのです!
本当の理由は...
理由何て無い!...理屈じゃありません!...惹かれてやまないものがあるからそうなるだけです!
先のは、どうしても意識が向かないのに対して、おのずから向いてしまうのだからしょうがありません!
何が偽りで、何が真の自分かは知らない!...しかし、“本来の自分“というものなら、このことを通して分かるのです。
それは、神にあって、神と共なる自分に他なりません。
自分から真我実現、悟りの道を志そうにも、そこには何ら確かな裏打ちがある訳でもありません。しかし、神と出会い、共にあることには、ある動かせない運命というものを感じずにおれません!
神(それは本来神と一なる我かもしれません)は、この私に何を望み、どう導かんとしているのでしょうか?
それについては、もう祈り、ゆだねるしかありません!
どう導かれようと、その運命を受け入れるしかありません!
今年に入って、一段とあのお方の迫りが近しくなって来たのは確かなようです!...
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