「もし あなたは 私を見つけられないなら
あちこち歩き回るのを止めなさい
もし 私を見つけたいのなら
私を あなたの内に探しなさい」
(アビラの聖女テレサの「詩」/聖母文庫)
精神の道を歩む者なら誰しも悟りや精神的覚醒、超越体験などに関心を持ったことがおありでしょう?
私も御多聞にもれない者なのですが、そういう人たちの気持ちをヘコませてしまうだろうことを言いますと、私は一度もそうした意図をもって、そのようなことになったことは一度も無いのです。
まあ、悟りというのはともかく、神の手に捉えられて、初めて人生の裏側へ踏み込んでしまったことは、全く思いがけないことだったのです。
そして、それがあまりにも至福に満ちた、スッバらしいことだったので、何とか再現出来ないものかと、「スブド」という団体で「ラティハン」と呼ばれる霊的修練と関わったりしたのです。
一寸マンネリ気味になったこともあったにせよ、常にそういう期待はどっかで抱いて、それに臨んでいたのですが、約四年間もの実修の中で一度もそういう契機には恵まれませんでした。
その後、同じような目的で、金井系一郎先生の提唱する「金井メソッド」という瞑想も試みたこともありましたが、やはり同様なのでした。
いずれも、大生命力とかバイブレーションというような、現臨感と相通ずる感覚はあるのですが、それ以上に深く意識に浸透して、あの至福感を伴う日常を超えてしまう感じには至らなかったということです。
ところが...さらに後、キリスト友会(クエーカー)、小池先生亡き後のキリスト召団の集会では、思いがけなく、そういう契機に恵まれました。
これは、あくまで私個人に即したことを書いている訳で、“そうか、それらのキリスト教系の集会へ行けば、そういうことに与れるのか!”、なんて即断したってダメですよ!
“そっちの方がより強度の力が働いているのか?“、なんてそんなことは多分無いでしょう?
言いたいことは、こういうこと...私はそこで、そういう体験を得ることを目的にしていなかったということです。だから期待したってダメなのです!
これは、主我的な思いから離れていたと言ってもいいでしょう。
思いがけないこと...正に思いを超えたところからもたらされたことだったのです。
只々、私の現前に臨んで、私のすべてを捉えるものに打ち任せるしかなかったのです。
おのずと思いから離れて、神のみ手に明け渡される...
そうなってみて、この根源現実を離れて覚醒、超越体験自体を求める在り方は、主我的な思いから発していたことを知らされたのです。
意識がどうしてもそちらに向かない、通らない...つまりは思いから離れられないのです。
我が主から離れて、一体どこに導かれようか?!
我が主を求める...パッと向いてしまう!...それがたとえ主我的な思いからだろうと、それを超えて、主へのゆだねへとおのずと切り替えられてしまうのです。
そして、いつの間にか、その主との一体感は常住のものとなってしまったのです。
あちこち歩き回るのを止めなさい
もし 私を見つけたいのなら
私を あなたの内に探しなさい」
(アビラの聖女テレサの「詩」/聖母文庫)
精神の道を歩む者なら誰しも悟りや精神的覚醒、超越体験などに関心を持ったことがおありでしょう?
私も御多聞にもれない者なのですが、そういう人たちの気持ちをヘコませてしまうだろうことを言いますと、私は一度もそうした意図をもって、そのようなことになったことは一度も無いのです。
まあ、悟りというのはともかく、神の手に捉えられて、初めて人生の裏側へ踏み込んでしまったことは、全く思いがけないことだったのです。
そして、それがあまりにも至福に満ちた、スッバらしいことだったので、何とか再現出来ないものかと、「スブド」という団体で「ラティハン」と呼ばれる霊的修練と関わったりしたのです。
一寸マンネリ気味になったこともあったにせよ、常にそういう期待はどっかで抱いて、それに臨んでいたのですが、約四年間もの実修の中で一度もそういう契機には恵まれませんでした。
その後、同じような目的で、金井系一郎先生の提唱する「金井メソッド」という瞑想も試みたこともありましたが、やはり同様なのでした。
いずれも、大生命力とかバイブレーションというような、現臨感と相通ずる感覚はあるのですが、それ以上に深く意識に浸透して、あの至福感を伴う日常を超えてしまう感じには至らなかったということです。
ところが...さらに後、キリスト友会(クエーカー)、小池先生亡き後のキリスト召団の集会では、思いがけなく、そういう契機に恵まれました。
これは、あくまで私個人に即したことを書いている訳で、“そうか、それらのキリスト教系の集会へ行けば、そういうことに与れるのか!”、なんて即断したってダメですよ!
“そっちの方がより強度の力が働いているのか?“、なんてそんなことは多分無いでしょう?
言いたいことは、こういうこと...私はそこで、そういう体験を得ることを目的にしていなかったということです。だから期待したってダメなのです!
これは、主我的な思いから離れていたと言ってもいいでしょう。
思いがけないこと...正に思いを超えたところからもたらされたことだったのです。
只々、私の現前に臨んで、私のすべてを捉えるものに打ち任せるしかなかったのです。
おのずと思いから離れて、神のみ手に明け渡される...
そうなってみて、この根源現実を離れて覚醒、超越体験自体を求める在り方は、主我的な思いから発していたことを知らされたのです。
意識がどうしてもそちらに向かない、通らない...つまりは思いから離れられないのです。
我が主から離れて、一体どこに導かれようか?!
我が主を求める...パッと向いてしまう!...それがたとえ主我的な思いからだろうと、それを超えて、主へのゆだねへとおのずと切り替えられてしまうのです。
そして、いつの間にか、その主との一体感は常住のものとなってしまったのです。
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