"人生の裏側に踏み入れると、そりゃもう、今生では与り知れないような幸福感で充ちあふれているんですよi..."
なーんていい気になって言ったりもするのですが...見落とし勝ちなことですが、これは、表側の二元的な現実世界で生きている私が言っていることなのです。
完全に向こう側の住人になってしまうということは、もはやこの世の住人でない訳で、人間を完全に超越してしまっている(生き仏?)か、ホントの仏様になってしまうようなものでしょう。
この他、神的なものと一つになるとか、それが表に出てくるとか、こういう言葉は、二元的なものを前提にしないと出てこないのです。愛というものがそうであるように...
その幸福感というものは、この二元世界で味あわされる不幸感が無ければ与ることが出来ないのかもしれません。(それはしかし、そうした相対的図式を超えた根本的幸福というものもあるのであるが...)
どっちみち、私はこのヘンテコ極まるシャバに生まれ落ちてしまったのです。その運命は受け入れるしかありません。
というか...そこにはもう、感謝しかないのではなかろうかi
"生まれてこなけりゃよかった"、とか、すべての二元性を超えて、究極の一元的悟りの境地を目指すとか、この低次元の物質世界は淘汰されて、高次の霊的世界に転換することを願い続けたりする(要するに世の滅亡を願っている)人間の気が知れません。
度々言うように、裏側の分離の無いような世界とか、言葉ではそう言ったりしますが、私が感じたそれはこの二元世界と別在して在る訳では無いのです。
私が初めて人生の裏側に踏み入れたのは、私個人の考えられる限り最も世俗的な、"俗世界の聖地"大阪梅田のど真ん中でのことだったのですi
とにもかくにも私はこの世に表れ出ているので、こうして言葉を表わし出すことが出来る訳で...死人に口は無いし、涅槃は永遠に空無でしょう。
私にはノンデュアリティでよく説かれるように、二元世界は幻想で、非二元世界こそ真実であるようには到底感じられません。そういう言説こそが幻想に感じられてなりません。
そんな短絡的な図式みたいなもので、人間のことも世界のことも語られるでしょうかi
この汚れた世の真っ只中では神的なものと一つになれない、悟りの世界に行けないというのなら、さっさと霊界でも神界でも涅槃界でも行けばいいでしょうi
いいや、この二元世界に生まれ落ちたからこそ、神的なもの、最愛のものに出会えるのかもしれない..."出会える"ということはそういうことなのだから...
真実は、二元と切り離された一元というものは無く、神は一元も二元も超えて、貫いて生き、ハタライているということでしょう。
だからどんなに矛盾に満ち、ヘンテコであっても、この世界は保たれているのでしょう。
そして神無くしては、本当にはこの現実世界、自己の現実に向き合うことは出来ないのでしょう。
そうでなければ世界は、ハリボテで出来ているようにしか感じられません。(これは前言を裏返したような二元世界の幻想について言っているのです)
私は特定の信仰など持ち合わせていないが、神の無い世界というものは考えることが出来ません。それがこの"現実世界"というものなのではないか?
なーんていい気になって言ったりもするのですが...見落とし勝ちなことですが、これは、表側の二元的な現実世界で生きている私が言っていることなのです。
完全に向こう側の住人になってしまうということは、もはやこの世の住人でない訳で、人間を完全に超越してしまっている(生き仏?)か、ホントの仏様になってしまうようなものでしょう。
この他、神的なものと一つになるとか、それが表に出てくるとか、こういう言葉は、二元的なものを前提にしないと出てこないのです。愛というものがそうであるように...
その幸福感というものは、この二元世界で味あわされる不幸感が無ければ与ることが出来ないのかもしれません。(それはしかし、そうした相対的図式を超えた根本的幸福というものもあるのであるが...)
どっちみち、私はこのヘンテコ極まるシャバに生まれ落ちてしまったのです。その運命は受け入れるしかありません。
というか...そこにはもう、感謝しかないのではなかろうかi
"生まれてこなけりゃよかった"、とか、すべての二元性を超えて、究極の一元的悟りの境地を目指すとか、この低次元の物質世界は淘汰されて、高次の霊的世界に転換することを願い続けたりする(要するに世の滅亡を願っている)人間の気が知れません。
度々言うように、裏側の分離の無いような世界とか、言葉ではそう言ったりしますが、私が感じたそれはこの二元世界と別在して在る訳では無いのです。
私が初めて人生の裏側に踏み入れたのは、私個人の考えられる限り最も世俗的な、"俗世界の聖地"大阪梅田のど真ん中でのことだったのですi
とにもかくにも私はこの世に表れ出ているので、こうして言葉を表わし出すことが出来る訳で...死人に口は無いし、涅槃は永遠に空無でしょう。
私にはノンデュアリティでよく説かれるように、二元世界は幻想で、非二元世界こそ真実であるようには到底感じられません。そういう言説こそが幻想に感じられてなりません。
そんな短絡的な図式みたいなもので、人間のことも世界のことも語られるでしょうかi
この汚れた世の真っ只中では神的なものと一つになれない、悟りの世界に行けないというのなら、さっさと霊界でも神界でも涅槃界でも行けばいいでしょうi
いいや、この二元世界に生まれ落ちたからこそ、神的なもの、最愛のものに出会えるのかもしれない..."出会える"ということはそういうことなのだから...
真実は、二元と切り離された一元というものは無く、神は一元も二元も超えて、貫いて生き、ハタライているということでしょう。
だからどんなに矛盾に満ち、ヘンテコであっても、この世界は保たれているのでしょう。
そして神無くしては、本当にはこの現実世界、自己の現実に向き合うことは出来ないのでしょう。
そうでなければ世界は、ハリボテで出来ているようにしか感じられません。(これは前言を裏返したような二元世界の幻想について言っているのです)
私は特定の信仰など持ち合わせていないが、神の無い世界というものは考えることが出来ません。それがこの"現実世界"というものなのではないか?
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