人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

真我と神の探求

2023-06-02 09:37:06 | 求道、探究
ラマナ.マハルシは、真我実現の道を説きましたが、私には、それは一定の方法に依拠するものとしてはほとんど示さなかったという印象が強いのです。何と言ってもラマナが示されたのは、直接的な道なのです。
ところが、ひたすら「私は誰か?」と尋ねていく、ジャニヤーナ.ヨガに通じるような道は、ラマナからもそう取られるような表現があったり、ラマナに関連したネットの記事を読んでも、そうした一つの方法として取り上げられている例が多いようなのです。
何度か書いているように、私はそれを試みようと思ったことはありますが、ほとんど馴染みませんでした。
何故って、そう試みようとするのは、言うまでもなく思い、為そうとする私なのであり、ずっと“私は誰か?、と尋ねている私が居座り続ける感じが残るからなのでした。意志想念から離れようとしているのに!...
しかし、それがようやく昨秋の頃、意志想念を超えて、ハートの辺りに直撃するような事態になったのです。
それは「私は在る」という現存、実存感覚に意識を向ける、向けられることによって!
勿論、取っ掛かりとして、そういうことを意志する、ということはありますよ。しかし、そう思いたっただけで、すぐに自然に、無為的なことに切り替わってしまうのです。
私の個人的意識は“私は在る“という意識に吸い込まれるように!...
これは、度々触れている、“神的なものに意識を向ける“ことと原理は同じことなのです。(これは、ラマナが帰依の道~バクティとして、同じように真我実現の道として示されたものに通じるでしょう)
ただ、神的な自己を超越した方に、向けられるか、実存的、内在的な方に向けられるかの違いがあると言えるでしょう。
そして超越的なものと内在的なものは切り離されたものじゃない、相即されているのです。
どちらにも現臨、現存感覚というものが伴っており、それによって一つに結ばれている感じなのです。
ラマナが“神と真我は同意義である!“、と言っていたことが実に肯けられますね。
改めて思うに、ラマナが説いた“私は誰か?“と尋ねる道の本質的な有り様とは、こうした直接的なものだったように感じざるを得ません。
これは私の恣意的な解釈なのでしょうか?
それは、各人があなたの神に、本心に尋ねてみれば自ずと明らかとなるでしょう...。
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